ご訪問いただきありがとうございます。

前回から、わたし自身について、何回かに分けて書かせていただいております。
今回は大学入学から、就職してうつ病になるまでです。

前回のブログはこちらです。

 


さて、某私立大学への入学を許可されたのはうれしいことでした。
ただし行くには条件があって、親が出してくれるのは奨学金を引いた学費だけ。
残りの奨学金分の学費と通学のための交通費はわたしが出すというものでした。
(この背景には、父が夜学の高校に通って自分で学費を負担したということがあったようです。その頃と時代が違うんですがね・・・)

ということで、必然的にバイトと学業の掛け持ちになりました。
自宅から電車で2時間かけて通うことになったので、通学費もそれなりに必要でした。
バイトは家庭教師と塾講師を掛け持ちして、かなりの額を自分で稼いでまかないました。
(教えることが好きだったので、バイト自体は苦ではなく楽しかったですが、学業との両立には苦労しました)

理系だったので、3回生になったら研究室配属がありました。
そうすると研究と通学とバイトの時間の工面がしんどくなってきました。
それでも何とか研究をこなして卒業し、たまたま実家近くに新しくできた国立の大学院に進学しました。
ここでも生活費はある程度自分の稼ぎでまかなう必要がありましたので、大学生時代からの塾講師のバイトを続けました。
ここでも時間の工面でしんどい思いをしましたが、何とか研究の単位をもらって学位を取って修了しました。

大学院生になって就職活動しましたが、当時は就職氷河期に入った頃でした。
就活では、漠然と医療に携わる仕事に就きたいと思っていました。
そこで、近畿地方にある某医療機器メーカーに就職しました。
活動した時期が遅く募集はほぼ終わっていたようなのですが、わたしの研究テーマに関心を持ったメーカーの人に採用してもらえました。
(その人は入社後にわたしの直属の上司になりました)

その時入社した会社では、運命が待ち構えていました。

わたしは入社してすぐ、ある重要なプロジェクトに配属されました。
そのプロジェクトでは、将来会社の屋台骨となる新製品の上市を計画していました。
(このプロジェクトの真っ只中に最初の結婚をしました)

最終的に上市できたのですが、上市が近づくと仕事量が増え、激務になっていきました。
生産移管の段階になり、自宅から遠い、でも通えないことはない場所にある工場に通う日が続きました。
夜中すぎに寝て、朝5時に起きて自家用車で工場に通う日々が続きました。

そんな日々を乗り越え、製品を無事に上市して、プロジェクトは発展的に解散して終了しました。

新しいプロジェクトに配属されたある日、手にものすごい汗をかくようになりました。
頭も回らなくなり、会社に来て座っているだけで精一杯の日が続きました。
しかし次第にそれも辛くなり、ついに近所の精神科を受診しました。
その頃、職場の上司からも休むように言われていました。

何軒か精神科を訪ねて回り、最終的にその後長くお世話になる主治医のところで診断書が出ました。

3か月間会社を休んで療養するように、とのことでした。

初めて休職することになりました。

休職中はほぼ寝たきりで、天井を見て過ごす毎日でした。
またこの頃、両親とのコミュニケーションがこじれて半絶縁状態になりました。

その後、寛解するまで数年間にわたって合計で3回休職することになりました。
(休職中も、それはしんどくていろいろあったのですが、ここではあまり深入りしないでおこうと思います)

ここまでお読みいただきありがとうございます。
次回は休職明けから、初めての転職を決断するまでの期間を書きたいと思います。

次回へのリンクはこちらです。

 


それでは、また次回にお会いしましょう。