ネタもない平穏な日々を過ごしております。感謝です。でも人生は甘くない。これは間違いのない事実だ。ヘタレなあたしは日々恐恐としております。なんせ来年から空亡、大殺界。ちなみに今年から大殺界だったが、今年はまあまあ平穏だった。さらにちなみに、前回の大殺界の三年間、あたしは相当キツイ展開にさらされた過去がある。その関連で考えると、あたしはこの数年10月が厄月だ。2017年の10月は車上荒らしにあって、ゴルフバッグをパクられた。2018年は目に結膜下出血ができたのちに歯が折れた。そして今年は妹が入院し、重篤な病気の疑いで検査をした。結果は陰性だったけど、検査が決まってから検査まで二週間くらいあり、なかなかの心労だった。月の空亡(殺界)でいうなら、12月と1月のハズなんだけどね。

 

 フランス映画ヌーベルヴァークのミューズ、アンナ・カリーナが79歳でこの14日に死去した。ゴダール監督の映画「気狂いピエロ」(1965)は数回観たが、内容はあまりよく覚えていない。でも最後の詩だけはすごく印象に残っている。

 

 見つかった?

 何が?

 永遠が

 海に溶け込む太陽が

 

 これはランボー「地獄の季節」からの引用らしい。この映画の最後にこの詩が来ると、何とも言えず、黙り込むしかない。いうまでもないがスタローンじゃないよ。

 

 映画「紅の豚」は名台詞が多い。そのうち私の好きな一節が、

 

 さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ、ってわけだ

 バイロンかい?

 いや、俺だ

 

 このくだりもすごく好き。
 詩には疎いが、詩というもののパンチの強さに黙り込むことはごくたまにある。散文はひとを饒舌にするが、詩は黙り込ませる。俳句なんかも同様だ。人生に「詩」との接点があると、なんてことのない日常に異界、”永遠”への扉がわずかに開くようだ。この瞬間、日々を過ごす市井の人々の地道な生活にこそ詩への扉は開かれているのが感じ取れる。

 

 近所の猫がいる公園でのごみ拾いは今も時折している。行けばほぼ毎朝、相変わらず大量の吸い殻とコンビニで買ったであろうペットボトルや食べ物の容器が散らばっている。吸い殻なんて、明らかに飛ばしている。おそらく犯行時刻は前日夕方以降だろう、などと拾いながら捨てた連中を呪っている。この公園への道は神社への参道でもある。この不届き者らめが。東屋についてはおそらく特定のひとりか二人、ピースを吸っている。他に階段の踊り場の特定の一人か二人。このうちのひとりは本数はピース野郎(?)に比べればずっと少ないがキッチリとポイ捨てしており、メンソールだ。こうして薄い霊能力を持つ私は吸い殻を介して捨て主を着実に呪っている。しかしこれは最終作公開が控えている「スターウォーズ」でいうところの、「ダークサイドに落ちる」ってやつじゃないだろうか。そんな葛藤を抱えていると、最近テレビのニュースショーに例のスーパーボランティアと呼ばれる男性が出ていた。その時も海辺?かどこかでプラゴミの回収をしており、
「誰が捨てたんかわからんけど、(地球?自然?に)ごめんなーって思いながら片付けている」
 私に欠けていたのはこの視点だ。私が向き合うべきはマナー知らずの劫積みポイ捨て野郎ではなく、自然とか、そういうものなのだ。基本的にはそちらを向いているべきなのだ。なるほど、と思いながら自己都合に合わせて引き続きゴミを拾っている。でもやっぱり、

「こいつら呪われろ! あたしが心配しなくても、それなりに劫を積んでその報いは受けているだろうがね!」

 とダークサイドに落ち気味の心情はまだ捨てきれない。これから、それこそ来年以降、私の心情レベルは上がっていくのか。

 

※2017年10月、車上荒らしの一件はコチラ
※2018年10月、結膜下出血+歯折れの件はコチラ