「流転の海」シリーズの第二巻。主人公熊吾は第一巻の終わりで商売で成功した大阪を離れ、妻子を健康に育てるために郷里伊予に戻ることにするが、第二巻では55歳で再び大阪に戻り起業を決意するまでの数年を描く。伊予に移り住んで三年目の昭和26年(息子伸仁が4歳になったばかり、熊吾54歳)からこの巻は始まっている。

 第二巻で印象に残った箇所をいくつか取り上げる。

 

 「俺が房江に苛立ちを感じるのは、いつもいつも先のことばかり心配している点だ。房江が楽天的であったことは一度もない。あいつが胸に抱いている訳のわからない不安は、絶えず俺の行き足を鈍らせる。おそらく、それは房江の性分、なのであろうが、あまりにも恵まれなかった生い立ちが、房江の心に慢性的な不安を植えつけてしまったとも言えるだろう」

 

 私は「先の心配」を言っても仕方ないのでいちいち口にはしないが、本質的には房江と同じだ。でも私が「あまりにも恵まれなかった生い立ち」を背負っているわけではない。めっちゃ恵まれているとは言わないが、房江の過酷な若年期とは比べ物にならない。私の「慢性的な不安」はもって生まれた「性分」としか思えない。

 このずっと後にこんな箇所がある。

 

 「(熊吾は)<子は親を選べない>という言葉には、大きな錯覚と誤謬があるように感じられてきた。蛇が蛇を産むのではなく、蛇とならざるを得ないものは、蛇を親とする以外に生まれる術はないのだ」

 

 オカルト的思考の強い私だが、この箇所は今まで考えなかった角度でとても印象に残った。私が私としてこの世に生を受けるには、良くも悪くも両方の意味で、あの両親からしか生まれざるをえなかった。そこから私の生はスタートせざるをえないなにかを背負ってこの娑婆に出でてきたのであり、この世にいる全員(つまり親も)がそうである。つまり「乗り越えるべき課題」はそこからスタートしており、課された”課題”を克服してしかるべき境地にたどり着くためにあるのが「生」ではないのか。それが「課題」としてとらえることなく、「気づき」のないまま、「課題」に押しつぶされるままにゆがんだり、尊大になったり、矮小になっていこうとしているうちは、「間違って」いるのであり、終始その「課題」をつきつけられるのではないか。もちろんこんな考え方が何の救いにもならないケースもある。実の親に虐待されて殺される子供とか。でもこの視点によって突破口を見出せる人生も数多くあると思う。もちろんなんの実証もない見解だが、案外バカにしたもんでもない気がする。

 

 と、なかなか感銘を受けた箇所もあったが、反感を覚えた箇所もあった。

 

 「子供のいない夫婦っちゅうのは、世の中のいろんなところで、どこか気がきかんのです」

 

 これは音吉という一登場人物の発言だが、この論を展開するために数ページにわたって筆が費やされており、筆者自身の見解としか思えない披露のされ方をしている。「子供のいない夫婦」とは、ここで書いてはいないが、理屈上未婚独身者も当然含まれるはずだ。つまり「子供のいないひと」を劣った存在としていろいろ分析しておきながら、「そうはいっても子供がいてもこういう人間も大勢いるし、子供がいなくてもこれに当てはまらないひともいる」と補足付き。こういうのを偏見というんじゃないだろうか。私たち夫婦にも子供がいない。あたし自身は「気が利かない」人間だろうとは思うが夫は全然違うし、私自身が生活していて「子供がいない夫婦」、婚歴のない独身者にそういう共通点を感じたことはない。逆をいうなら「子持ち」に対して「独身者」にはない”上等”な傾向を感じるかというとそういうこともない。ていうか、子供がいるにもかかわらず「気が利かない」登場人物がこの小説自体に多々出てきている。

 

 「自分の考え方とかやり方以外にも幾つか方法はあるのだということを工夫したりはしない。自分の考え方とかやり方に固執する点では実に頑固なのだ。それがひとつ。もうひとつは、自分たちが何らかの好意を投げかける場合においても、相手から好意を受ける場合においても、それに対する感情の表現が、何かしら一味足らない。つまり、人間としての暖かさの伝え方が微妙に不足している。さらにもうひとつあげるとすれば、真底から相手の身になって考えるということをしない。相手には相手の事情があるという前提にたって人と向き合わない。そこのところが、なぜか欠落している」

 

 言いたい放題。熊吾は50歳で子供を得ており、この見解によるならその前と後で「別人」になっているはずだが、相変わらずのDV野郎だし、「変わった」ことを実感できる描写はない。この音吉が「熊おじさんは優しくなった」と言っているだけだ。一登場人物の個人的見解として披露されるならなんということはない。むしろその登場人物の人間性を表現するだけなのだが、この箇所についてはほとんど宮本氏個人の見解と読める書き方をしており、なぜこんな稚拙な偏見に延々筆が費やされたのかと疑問だ。この辺の読み取り方の判断については、関心のある方には実際に読んでいただいて各自判断してほしい。宮本氏が執筆前に我慢ならないほどこういう経験をした時期があったんだろうか。あえて独身者を含まず、「子供のいない夫婦」と限定しているのも不自然だ。こんなの「一人っ子は」「ゆとり世代は」「片親の子は」とかそのテの類の話と変わらない。「全員が全員そうってわけじゃないんだけど」。こういう私的な怨恨の作家的ストレス解消みたいなのは前に掲載した「コンビニ人間」でも感じたことだ。宮本氏レベルの作家でもやるんだとガッカリ。
 私という人間がいかに自己中心的かということについては年を取るほどに実感している。おそらくこれも私の「もって生まれた性分」だ。夫がそうではないように。ただ私のこの自己中心的な性分が、先に書いた「慢性的な不安」と無関係ではないことも強く感じている。私という人間の本質を変えることは不可能だと思っている。ただこういう傾向があることに気づくことで実際の言動を変えることは可能だし、その細かい積み重ねによって、私の人生の方向性、未来の私の心の在り方にけっこう差がつくのではないかと思っている。
 

 それにしても登場人物が多い。誰かわからなくなりそうな登場人物について一覧にする。増田伊佐男が誰かわからなくなる、はないと思うのでスキップ。

 亀造・・・熊吾の父。既に鬼籍。

 ヒサ・・・熊吾の母。夫亡き後、自身が50歳を過ぎて再婚。それが原因で熊吾とわだかまりができる。二番目の夫も既に鬼籍。

 タネ・・・熊吾の実妹。

 野沢政男・・・妻子がありながらタネに明彦を孕ませる。甲斐性なし。

 明彦・・・タネと政男の息子。13歳で聡明。

 千佐子・・・タネが政男とは別の妻帯者との間に作った娘。伸仁のひとつ年上。

 長八じいさん・・・86歳になる地元の生き字引的長老。

 リキ・・・長八じいさんの嫁。30歳で既に後家になっている。

 和田茂十・・・深浦港の網元。屋号は魚茂。

  完二・・・茂十の次男。兄(長男)は戦死。

 宮崎猪吉・・・熊吾の小学校の同級生で警官。
 音吉・・・鍛冶屋。地元の発明家的存在。徴兵でビルマ戦線へ。戦死したと思われたが帰還。

 谷山麻衣子・・・熊吾の友人の中国人・周が節子という日本人女性との間に作った娘。

 信太郎・・・谷山節子の息子。

 井手秀幸・・・麻衣子の恋人で大学院生(?)。料亭の息子で妻は静香。

 米村喜代・・・丸尾千代麿の不倫相手。

 浦辺ヨネ・・・タネの同級生。寡婦で飲み屋を営んでいる。首に傷を隠すネッカチーフなどを巻いている。

 唐沢政市・・・熊吾の従弟。妻はイツ。

(新潮文庫 750円)

 

※第一巻「流転の海」はコチラ

※村田紗耶香著「コンビニ人間」はコチラ

 

★今週のお花見★
2/24 三浦に河津桜を見に行く。わずかに葉が出ている程度の見頃。天気もよく暖かで、大勢の人出。いい感じににぎやかだった。想像以上に晴れやかな気持ちになった。