今日、ある全日制高校からここ通信制代々木高校の四日市教室への転校希望者がみえました。
その保護者が語る内容に私は愕然としながらも30年以上教員をやってきた自分の過去を振り返り
胸の痛みを感じないではいられませんでした。
同時に私が尊敬してやまない林 竹二氏の言葉がよみがえってきました。
いじめや嫌がらせを受け、せっかく高校3年生まで進級してきた学校をやめたいとまで言い出した
子どもの相談を申し出た保護者に、担任が取った対応はあまりにも冷たく投げやりなものでした。
もちろん、保護者の言い分や気持ちだけで一方的に判断することはできませんし、私自身の教員
経験から考えてもその先生の言動にはきっともっと深い意味や背景があるのだろうとも思いました。
ただその先生がその生徒の部活動の顧問でありかつ担任であるということが大いに関係していると
思われる部分もあり、また20代前半の若さから来る人間としての未熟さもあるように感じました。
教師の抱える仕事の内容が多岐にわたり忙しすぎるという面もありますが、部活動強化に比重を
置くあまり、いまマスコミを賑わせている上意下達の絶対服従の特殊社会に自身が慣れきってしま
っていて、担任としての仕事にもそれと同じやり方をあてはめてしまったのではないか、
「ついてこれないやつは放っておく」というようなところがあったのではないでしょうか。
いまから40年近く前、教員志望の私は当時宮城教育大学の学長をされていた林 竹二先生に傾倒し、
その著書をひたすら読みあさっていました。教師としての最初の勤務校はたいへんな生徒が集まる
ことで県内でも有名な高校でした。新任教師としてかなり疲弊していた頃、林 竹二先生の講演会が
鈴鹿でありました。
講演のなかで、林氏は「大学を出て、仕事の経験もまともに積んでいないのにいきなり『先生』と呼ば
れるのは教師だけだ」と言われました。著書のなかでもたびたび語られるその言葉に加えて、
「だから自分に権威があると錯覚をしてしまう、それは無用な権威であり、教師としての成長の邪魔に
なる」と。
「生命にたいする畏敬を欠けば教育は成立しない。そのことが日本の学校をじつに荒涼をきわめた世界
にしてしまっている。教育がなくて調教だけが教育の名においてまかり通っている。
そして、もっとも恐ろしいことは、教師たちがその言いようもない無残な荒涼に直面しながら、
それを異常と感じていないことである」という氏の言葉はいまも色褪せていないと感じました。