領民を愛した名君/鞆殿 | 全国一斉 鞆の浦検定(鞆ペディア)

領民を愛した名君/鞆殿

【水野勝俊(みずのかつとし)
慶長3年7月25日(1598年8月26日) - 承応4年2月21日(1655年3月28日)

備後福山藩(現在の広島県福山市)二代藩主
水野勝成の長男で備中国成羽(現在の岡山県高梁市成羽町)に生まれる。
生母は三村親成に仕えていた藤井広玄の娘「お登久(おとく)」。
官位は従四位下。美作守。室は九鬼守隆の娘。

勝俊は庶民出自の母を持ち父の流浪生活に付き従ったためか、
封建的時代の藩主としては過剰なほど領民に対する気遣いを見せている。

例えば、
福山城下が火災により焼失したときには
家臣に再建を余り急がせて町人が迷惑してはいけないから、
少し遅れてもよいので町人に迷惑をかけぬよう命じており、

飢饉のとき
藩の鷹師が麦畑を荒らすことがあれば父勝成の領地であろうと
自分の領地であろうと届けなしに百姓総出で鷹師を処罰してもよいとしている。

また、
度重なる不作に対して
資金の貸与や年貢の減免など手厚い救済策を講じ農民の没落を防いでいる。

さらに、
藩主就任の翌年には幕府から備中松山城在番を命じられるが、
藩士が皆木綿の着物を着ていたことから、その質実さを松山の町民が称えたという。

しかし、家臣にこうした倹約を強いたにもかかわらず、
勝俊の死に際しては家臣7人が殉死するなど、信任は非常に厚かったようである。
能楽や俳諧を好み、俳人野々口立圃と親交を深めるなど、文化面でも熱心であった。
そして、
天災や領内整備による財政の窮乏を凌ぎ藩の安定に尽力するなど、
文献で見る限り勝俊は名君と評価できるが、
カリスマ的存在である父勝成の存在により影が薄くなりがちである。



1598(慶長3)年、放浪の身であった父勝成が身を寄せていた備中国成羽城下にて生まれる。
 幼名は長吉。初めは勝重と名付けられるが、正保3年(1646年)に勝俊と改める。
 幼少から勝成に従い慶長14年(1609年)に11歳で「美作守」に叙任される。
1614(慶長19)年には大坂の役に参加し翌年の夏の陣では特に軍功をあげた。
 なお、大坂の役では宮本武蔵が勝重付けとして名を連ねている。
1619(元和5)年に勝成の福山入封に同行するが、
 福島正則の築いた鞆の浦の鞆城(後の鞆町奉行所)に居住したため
 「鞆殿」と呼ばれたという。

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