非日常と日常とファミえんの多幸感とsummer dejavuの話 | 考えてる途中。

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おもにエビ中の好きな曲のこととかを考えてる途中。
ふしぎと意味のない文章ばかり書きあがります。

ファミえんが終了して4日。なんであんなにファミえんの空間は幸せだったのでしょうか。きょうは前置きもほどほどに、それについて考えておくことにします。長くなったので読まないでいいです。

 

1:日常と非日常について

一般に遠足っていう行事は、学校生活という閉じられた日常の登場人物たちを、非日常空間にそのまま持って行くことのできる稀有な時間を味わわせてくれます。普段と違う景色の中で、いつもとちょっと違う表情を見せるクラスメイトの顔などを見て、あの頃の僕たちは不思議なドキドキとワクワクに心が躍ったものでした。学校公認でお菓子を持っていけることなんかも非日常なワクワクポイントでした。

エビ中の皆さんもファミえん会場で、ライブ前にメンバーだけでなく裏方スタッフの皆さんと一緒にバーベQをしたり水鉄砲に興じたりしています。これはメンバにとっての非日常です。たとえばSSAなど都会の大きな会場で公演を打つ際、みぞっちとかならまだしも、大道具さんなどと一緒にケータリングを食べることは基本的にはないでしょうからね。いうなれば、SSAは特別感の強い日常。ファミえんは特別感がある上に非日常。まずそこが違うように思うのです。

 

ここで真山が2015年のファミえんの舞台裏で語っていたことを書き起こしてみます。

 

すごい楽しい。
あの、あのね、あのステージあんじゃん?

あれ、無くて。もともと。
(四角くまとめた白米パクリ)

 

で、それで、あの、1から作ってくれたんだって。
そういうのって、やっぱり、あの、なんだろー、あの、
なんかそういう風にしてくれて、
やっぱ改めて、皆さんに支えられている。
スタッフさんとか、みんながいなかったら今年は成立しなかったから、
今年こそ本当に成立しなかったから、

(アスパラ?をパクリ)

 

ほんとありがたいなと思って。
で、いつもより賑やかだし。やかまし感が強いっていうか。

初めて会った人も多いけど、
(白米パクリ)
うん、でも、すごい、楽しい。

 

だからこそ、最後に私たちが、みんなの作ってくれたステージに立って、
あの、ファミリーのみんなが、楽しいなって思ってくれるような、
ステージを最後に作りあげていけるように、がんばろうと思います。

 

なんかね、すごい泣きそうになっちゃった。
さっき、すごい、すごい、だって、
アレ(ステージのある場所)がまっさらだったと思ったらさ。
すごいなって。

(スナイパーひなたに水鉄砲で撃たれる)

 

-特典映像より

 

解説を入れておくと、去年の会場・長岡の越後丘陵公園には常設のステージはなく、スタッフさんが土台から作りあげたのです。真山はそのことを言っています。

 

非日常空間であるファミえん。普段はケータリングを一緒に食べることなどないはずのスタッフさんも、バーベQの場に一緒にいます。顔を知っている程度のスタッフさんが違う表情になっているのを見たためでしょうか…真山の本番に対する想いもまた強いものになっている様子です。

真山のセリフは読んでの通り感謝の気持ちが大きいと思いますが、その端緒に「楽しい」という言葉が来ているところから、やはりSSAなどの日常的な特別感とは別の、一味違う非日常の空気になっているのだろうなあと僕は思わされるのです。

 

 

2:日常の延長線と非日常

非日常感ってのは、ただ非日常に満たされただけでは感情に作用しきらないように思うのです。日常の要素が非日常にうまく溶けこんでこそ、非日常のワクワク感が高まると僕は考えます。

 

たとえばエビ中さんは「林間学校」や「香港旅行」などの写真集を出しています。そこに写し出されている風景は紛れもなく非日常です。楽しそうに微笑んで写真に写っています。ただ、ここにはあまり日常の延長線が延びておらず、旅行という非日常を楽しんでおしまいです。

対してファミえんです。ここには写真集の撮影地にはなかった大きなものが一つあります。それは僕らファミリーです。

会場は東京から遠く離れて、空がでっかくひらけて、緑や自然が広がっている非日常空間なのに、そこにいつものようにたっくさんのファミリーがいるんです。都会のSSAに人がたくさんいるのとはまた違う感覚。日常と非日常が繋がった感覚。非日常なのに日常が流れ込んできている感覚。その不思議な感覚が普段と違うテンションを引き立たせてくれるものだと思うのです。

 

 

3:ファミリーにとっての非日常

ここまでメンバー目線に勝手になり替わって考えてきましたが、ここは僕ら目線で考えます。

僕らにとっても、ファミえんは都会での公演と違って特別感や非日常感が大きいです。

たとえば会場。特急やバスや車に乗って数時間。こんな機会でもなきゃ通り過ぎすらもしないであろう場所を目指し、僕らは進みます。今年はJRからローカル私鉄に乗り換えて1時間ほど揺られる旅でした。去年は新幹線を降りた後、地元のバスで山奥まで連れていかれました。

ストレートに言うと不便です。行くだけで疲れます。知らない土地はちょっと不安です。でも目的地には大きな楽しみが待っているんです。


ある者は一人で心細さと共に、ある者は仲間とレンタカーに乗ってワイワイと、いろんな感情に揉まれながらたどり着く会場。そこは東京から遠く離れて、空がでっかくひらけて、緑や自然が広がっている非日常空間です。なのに、たっくさんのファミリーがいるんです。憧れの女の子たるメンバーみんなもいるんです。雨の心配をすることさえ刺激のひとつなんです。ちょっとした不安や道中の疲れなんか軽く吹っ飛びます。テンション上がります。

これって、この感覚って、あのころに味わっていた遠足での感覚そのものなんですよね。

 

メンバーもファミリーも遠足の地でワクワクドキドキのテンションです。この空間が幸せでない訳がないじゃないですか。ある種のつり橋効果?そう!それです!

 

 

4:心の奥底に眠る遠足の記憶

最後に大きなおともだち目線で考えてみます。

僕らが遠足のワクワク感をリアルに最後に味わったのって、いつだったでしょうか。僕はもう思い出せません。リアル中学校を卒業してだいぶ経ってしまいましたもので。だから、当時の感情をそのまんまリアルに呼び起こすことなんてできません。
だけど僕らはファミえんで、無意識のうちに遠足のワクワク感を追体験させられています。ファミえん、ファミリー遠足というネーミングにうまく乗せられちゃっただけかもしれません。でもよく訓練された僕らファミリーは、永遠に中学生という言葉を心の拠り所に、遠足の非日常感を楽しんでいます。ガチ恋の人も父兄目線の人も、みんな一緒です。

 

まとめます。

日本人の心の奥底には、幼き日の遠足の記憶が眠っているんです。

楽しい遠足の記憶がある人も、実際はそれほど楽しい遠足を体験できなかった人も、ワクワクドキドキするあの感覚が心の奥底に眠っているんです。そして大きくなったファミリーは、心の奥底にある遠足のワクワク感の記憶との邂逅を、どこかで見たような気がする夏の風景と共に楽しんでいるのです。それも、実際はもう遠足なんて体験できないことをわかっていながら。だから戻れない原風景をストレートに想起させるいい湯だなを聞いて涙が浮かび、ポップコーントーンでそれが溢れ出てくるのです。

それらすべてが夏のデジャヴ、summer dejavuの世界なのです。

 

 

といったあたりでファミえんの多幸感に関する考察はおしまいです。7割夢想ですが3割本気です。そして文章が長い。次回からはスパッと簡潔な下らないブログを目指します。

それでは。