135年間にわたる駅弁屋の看板商品「荻野屋・峠の釜めし」。社会変化に対応する経営者の働き方? | think to careerのブログ

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お正月なので、元気な企業の本が読みたくなります。

 

景気に振り回されず、事業を安定的に経営している企業についてしりたくなります。

 

 

すると、過去の歴史を踏まえた面白い本『諦めない経営 峠の釜めし荻野屋の135年』を見つけました。

 

碓氷峠の横川駅で販売している荻野屋の名物駅弁「峠の釜めし」について書いています。

 

 

「峠の釜めし」はご存じでしょうか?

 

長野新幹線が開業する前、軽井沢に遊びに行くとき横川駅で販売された荻野屋の「峠の釜めし」を一度は口にしているはずです。

 

益子焼の陶器の「釜めし」駅弁です。

 

 

企業寿命30年説がある中で、「峠の釜めし」を看板商品にして、長く事業展開していることに感心しました。

 

135年も事業を継続していれば、成長期もあれば低迷期もあったはずです。

 

どのような状況だったか簡単にまとめてみました。

 

 

初代・仙吉、1937年2代目・勝一の時代

 

江戸時代末期、荻野屋は碓氷峠の麓にある中山道・坂本宿の霧積温泉で旅館を営んでいました。

 

1885年(明治18年) 鉄道が高崎~横川間に開通することになり、駅弁販売を始めます。

 

 

1946年3代目・一重 1951年4代目みねじ(一重の妻)の時代

 

1946年3代目社長・一重が誕生も、1951年に脳出血で死亡、妻のみねじが4代目に就任します。

 

当時は「幕ノ内弁当」が一般的で、高崎や軽井沢で駅弁を買う人が多く、横川で弁当を買う人は少なかったので、荻野屋の駅弁売上は低調でした。

 

1958年みねじは「峠のかまめし」を開発、販売します。

 

 

荻野屋は「峠の釜めし」の看板商品に発展していきます。

 

1966年 トヨタカローラの発売、モータリゼーションの時代に突入します。

 

みねじは、バス旅行客を取り込むため「ドライブイン横川店」を開業します。

 

 

1979年5代目・恭子(みねじの長女)の時代

 

恭子社長は、経営をご主人の忠顕さんに任せます。

 

忠顕さんはドライブイン事業の拡大化を進めます。

 

中央自動車道の諏訪インターチェンジに「ドライブイン・諏訪店」を出店すると人気店になる。

 

 

バブル経済とスキー人気のおかげで、諏訪店は大繁盛します。

 

1993年 忠顕さんは上信越自動車道の横川サービスエリアに出店します。

 

ただし、長野新幹線の開通により1997年「横川~軽井沢間は廃線」、横川駅の駅弁売上げは減少します。

 

 

忠顕さんオリンピック需要を見込み、佐久店など2店のドライブインを出店します。

 

荻野屋の売上は、1998年長野オリンピックをピークに減少し始めます。

 

 

6代目・志和(恭子の息子)さんの時代

 

2003年 忠顕さんがサイパン島で死亡、長男の志和さんが入社、取締役に就任します。

 

拡大路線による巨額な借入金があり、当面の目標は借入金の返済が課題になります。

 

オリンピックで交通網が整備され、長野は「安・近・短」のバスツアー先になります。

 

バスツアーは、ドライブインでの食事やお土産を買う時間が短く儲かりません。

 

 

2011年3月東日本大震災が発生、売上の根幹をなすツアーのキャンセルが相次ぎます。

 

地震による店舗の物理的被害は小さかったですが、春の繁忙期であるお花見シーズンにおけるキャンセルの発生は、荻野屋の経営にとって痛手となります。

 

 

金融機関から「財務体質を改善せよ、資金援助停止も有?」の通告を受けます。

 

2012年 荻野屋は経営改善計画を策定して、外部から優秀な専門家を採用して改善策に取り組みます。

 

2012年策定の経営改善計画は、全社をあげた取組みにより予定より1年早く2018年に達成します。

 

 

金融機関と新しい協議の場をもち、次なる成長を目指す計画を作くります。

 

志和さんは、荻野屋の過去の先達とおなじように、時代が変わろうが、社会が変わろうが、荻野屋の背負っていく覚悟をします。

 

 

2020年から観光・飲食業は、コロナによりひどい影響を受けています。

 

この本は、2021年1月に出版され、コロナによる売上の減少についてまでは触れられていません。

 

はたして、どのような状況だったか知りたくなります。

 

ぜひ、コロナ編を出版してほしくなります。