これに対する有力な代替的方法として、企業の価格決定ではなく家計の資産選択の決定に硬直性を仮定することで、中央銀行の貨幣供給の変化が、企業の生産活動をファイナンスするために必要な資金貸借市場の流動性総量を変化させ、これが実体経済に影響を及ぼす、というモデル(流動性モデル)が提唱されています。
これら二つのモデルの妥当性は、いずれのモデルが現実に発生した経済現象と整合的な振る舞いをしているかどうかによって判断されるべきであることは言うまでもありません。
Christiano and Gust (2000)は、1970年代の米国経済が経験した大インフレーション(Great Inflation)を、期待インフレ率の上昇によって引き起こされたものと想定した上で、硬直価格モデルと流動性モデルを比較するという分析を行っています。
Christiano, L. J., & Gust, C. (2000). The expectations trap hypothesis. Economic Perspectives, 24(2), 21-39.
ニューケインジアン・モデルと異なり、日本では流動性モデルはあまり人口に膾炙していない印象があるので、簡単に説明すると、これはCash-in-advance制約に基づく貨幣経済モデルにおいて、家計の資産選択のタイミングに特殊な仮定を置いたモデルです。
すなわち、家計は手持ちの資産ストックを
1)消費財を購入するために必要な資産である貨幣で保有するか
2)利子という形で収益を生む金融資産を金融機関を経由して保有するか
の選択に選択に直面していますが、家計はこの選択を、生産性や中央銀行の貨幣供給といった確率的ショックが実現する前に自らの予想に基づいて決定しなければなりません。
当然、その予想が外れることもあるわけですが、そうした予期せぬショックが発生しても、翌期になるまで資産ポートフォリオの変更を行うことはできません。このため、中央銀行の貨幣供給の変化は、そのまま家計から供給された投資資金と合わせて、資金貸借市場で利用可能な流動性の総量に影響を及ぼすことになります。
かたや企業は、家計の保有する資本ストックを借り、労働力を雇うことで消費財の生産を行うわけですが、財の生産を開始する前に、労働者に対して現金で賃金の支払いを行わなければならないことが仮定されています。このため、企業は労働力を雇用するために資金貸借市場で借入を行い、財の生産と販売の後、利子を付けて借入の返済を行います。
このような経済取引の構造の下では、中央銀行の貨幣供給量の変化は、資金貸借市場の流動性を増減させて名目利子率を変化させ、名目利子率の変化は雇用のコストを上昇又は下落させ、雇用の総量したがって実体経済の活動水準を変化させます。
Christiano and Gust (2000)は、1970年代の大インフレーションの引き金として、
・生産性に対する負のショック + 期待インフレ率の上昇というショックの組合せ
を想定し、硬直価格モデルと流動性モデルがそれぞれどのような反応を見せるかを比較します。
彼らの分析が明らかにするのは 硬直価格モデルは1970年代のインフレの高進と雇用・生産の停滞というスタグフレーションの現象を上手く説明できない、という点です。これは、硬直価格モデルでは雇用・生産が総需要主導で決定されるため、期待インフレ率の上昇が実質利子率の低下をもたらす場合に、総需要が刺激されて経済活動が拡大する、という不都合な結果が生じることによります。
もちろん、期待インフレ率が上昇する際に、期待インフレ率の上昇以上に名目金利が引き上げられるというような、テイラー原則に基づく金融政策が採られていれば、期待インフレ率の上昇は実質金利の低下にはつながらず、したがって総需要の拡大も発生しないわけですが、Clarida, Gali, and Gertler (2000)やその他の論文が示すように、この時期の金融政策はテイラー原則を満たしていなかったわけです。
これに対して流動性モデルでは、期待インフレ率の上昇によって実質利子率が低下すると、家計が資金貸借市場に供給する資金の量が減少します。資金量の低下は名目利子率を上昇させ、企業にとっての雇用コストを引き上げ、雇用と生産活動を停滞させることになります。
このことは、金融政策当局を、「インフレと雇用のジレンマ」に直面させます。すなわち、雇用を守るためには資金貸借市場の流動性を拡大すべく、金融緩和を行うことが必要ですが、これは家計の期待インフレ率を追認して、現実にインフレーションを引き起こすことにつながります。
Christiano and Gust (2000)は、インフレに対して十分反応的ではなかった当時の金融政策について、流動性モデルの枠組みの下では、物価の安定により強くコミットする能力の欠如として理解できると説明しています。
これに対して、期待インフレ率の上昇というショックに対し、インフレと雇用とが同じ方向に反応する硬直価格モデルの下では、「インフレと雇用のジレンマ」が発生しないため、テイラー原則を充足しない金融政策運営がなぜ行われていたのかを合理的に説明することができないという問題が発生します。
・インフレの高進に「ノー」を突き付けるだけで、実体経済活動を安定化させることも可能であったのに、なぜそうしなかったんだ

ということですね。
ChristianoとGustが分析対象としたのは1970年代の現象ではありますが。
近年、ニューケインジアン・モデルとして知られる硬直価格モデルの限界が取り沙汰される中、かつて代替的なモデル化の手法として提唱された流動性モデルについても、現代的な再検証を行う必要性を再認識させる、面白い論文だと思います。