ジャン=リュック・ゴダール監督の「気狂いピエロ」(1965年)をご紹介します。ゴダールがヌーヴェルヴァーグを極めたとされる1作です。
"Pierrot le Fou" Photo by bswise
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パリ。虚しい日々に飽き飽きしているフェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)。
リッチな妻とは不幸な結婚で、既に心離れています。
ある夜、彼はパーティーで数年前に別れた元カノ・マリアンヌ(アンナ・カリーナ)と再会します。
フェルディナンはマリアンヌと彼女のアパルトマンで一夜を共にします。
朝目覚めると部屋には見知らぬ男の死体が。そしてギャングらしき男達が現れる。
フェルディナンはマリアンヌを連れて南仏に向かって逃避行を始めます。
"Pierrot Le Fou" Photo by Craig Duffy
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その日暮らしですが、読書やレコード鑑賞を楽しみ、小説を書く日々に充実するフェルディナン。
対してそんな彼にウンザリするマリアンヌ。
ある日マリアンヌが失踪、またしても謎の男の死体が部屋に残されていた。
そしてマリアンヌと大金の行方を追って来た2人の男がフェルディナンを襲う。
フェルディナンはすっかりマリアンヌにどハマリしています。
ミステリアスな彼女に「愛しているか?」と何度も聞くフェルディナン。
マリアンヌはちょっと間をおいて「愛しているわ」と答える。
直後に観る者に意味深な眼差し(ちょっとゾクッと怖くなる)を向けるマリアンヌ。
ああ…哀れなピエロ、フェルディナン。
Untitled Photo by bswise
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フェルディナンはその時々で文章をしたためていますが、その一節が『見極める 理性』。
彼女は自分を騙している?信用できるのか?そもそも兄なんて男は本当にいるのか?本当に自分を愛しているのか?…
見極めるには確かに直感と同時に理性が必要ですが、ファム・ファタールにハマり踊らされる道化は既に理性を失っている。
それは一種の狂気か。
終盤、女性がらみの「あの曲」が聴こえると言う男が登場しますが、彼はその行き着いた存在です。
魔性の女に振り回されているうちに正気を壊されて破滅の道を行く男フェルディナンは我に帰って踏みとどまれるのでしょうか。
"Jean-Luc Godard & Jean-Paul Belmondo @ Pierrot le Fou, 1965" Photo by deepskyobject
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「気狂いピエロ」は、目が覚めるような原色使いと南仏の美しい海が印象的です。
海とは女性(特に母性の象徴)ですが、海には穏やかな顔と荒れ狂う顔があります。
生命の源で相手を包み込むという側面と相手を溺れさせ呑みこみ破滅させる海。
フェルディナンはマリアンヌという深い海に魅了され、ひきこまれたんですね。
あるいは愛とか恋愛感情自体が海のようなもの?かも知れません。
「勝手にしやがれ」(1960年)
"love to jean seberg" Photo by robot_infame
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ゴダールとベルモンドを一気にスターダムへと押し上げた「勝手にしやがれ」(1960年)もファム・ファタールにハマって破滅する男の物語でした。
ジーン・セバーグ演じるアメリカ娘に裏切られるベルモンド演じるアウトロー。
本作もフェルディナンとマリアンヌが米兵相手に小銭を稼ぐシーンがありますが、当時のフランス人のアメリカ文化への憧れと嫌悪感というアンビバレントな感情が窺えます。
とにかく、男女2人の逃避行と言い、「勝手にしやがれ」と本作の類似点が色濃いものがあります。
"Jean-Paul Belmondo & Anna Karina @ Pierrot Le Fou, 1965" Photo by deepskyobject
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ベルモンドは未熟さと欠陥を抱えた男が似合いますね。
アンナ・カリーナはサスガに何気ない姿さえ計算されつくしたような美しいポージング(「アルファヴィル」の彼女も観てね)。
そして時折見せる眼差しは狂気を帯びていて背筋を冷たくするものがあります。
男が神格化して憧れ、かつその魔に恐怖する女性というヴィジョンを体現しているように思いました。