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Real Yellow Monkey

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社会権 ― 基本的人権の一つで、社会を生きていく上で人間が人間らしく生きるための権利。

生存権、教育を受ける権利、労働基本権など基本的人権で保障されるこれらの権利を社会権と呼ぶ。

他の基本的人権と比べて比較的新しいことから、20世紀的人権ともいわれる。

その理由は、産業革命以前は「貧乏は個人の自己責任」という考え方であったが、資本主義の高度化によって構造化した貧困に対抗し、自由主義の理念である個人の尊厳を守るため、国家による富の再分配を肯定する考え方(リベラリズム、英:Newliberalism)に変わった。

結果、個人の生活を形式的にだけでなく実質的にも国家が保障しなければならないという社会権(国家による自由)が登場した。

日本では、日本国憲法において、三原則の一つである「基本的人権の尊重」として記述されている。

ただし国家に対する請求権である社会権は、国籍を有しない外国人には原則として認められない。

かりに認められたとしても国民と外国人の間での異なる取り扱いが許容される。

 

肖像権 ― 肖像(人の姿・形及びその画像など)が持ちうる人権のこと。

大きく分けると人格権と財産権に分けられる。

プライバシー権の一部として位置づけられるものであるが、マスメディアとの関係から肖像権に関する議論のみが独立して発展した経緯がある。

 

社会は交換主義者ではない。社会体は、登記するものである。

つまり、身体を交換することではなくて、この身体にしるしをつけることが仕事なのだ。

負債は縁組の単位であり、縁組は表象作用そのものである。

縁組は、欲望の種々の流れをコード化し、負債を通じて、人間の言葉の記憶を作るものである。

縁組は、沈黙の強力なる強度的出自の偉大なる記憶を抑圧する。

つまり、コード化されない流れの表象表現としての胚種の流体を抑圧する。

原始社会においても、交換は知られている。しかしそれは、追放されるべきもの、封じ込められるべきもの、そして厳しく格子状区劃の中に管理されるべきものとしてである。

いかなる流通価値も、決して交換価値として発展しないためにである。

交換価値は市場経済という悪夢を導入することになるからである。

原始的な売買は、等価値のものを決めることよりも、むしろ値切ることによって始まるのだ。

等価値のものを決める事は、種々の流れを脱コード化し、社会体に対する登記様式の崩壊をもたらすことになるからである。

貴族に対する課税と貧乏人に対する貨幣の分配とが、貨幣を富裕者に還流させ、奇妙にも富裕者の負債体制を拡大しいっそうそれを強化する手段となり、農業問題の経済的データからいって当然に起こりうる一切の再土地化を予防抑制することになるが、こうしたことがいかにして起こるのかといったことである。
ニューディールの後で、アメリカ人をあらためて見出す事になるのは、国家のあれほどの重税が事業に対しては好都合であるということであるが、あたかも、ギリシャ人は、自分なりの仕方でこれと同じ事を発見していたかのようでさえある。要するに、貨幣あるいは貨幣の循環は、負債を無限ならしめる手段なのである。