社会は交換主義者ではない。社会体は、登記するものである。
つまり、身体を交換することではなくて、この身体にしるしをつけることが仕事なのだ。
負債は縁組の単位であり、縁組は表象作用そのものである。
縁組は、欲望の種々の流れをコード化し、負債を通じて、人間の言葉の記憶を作るものである。
縁組は、沈黙の強力なる強度的出自の偉大なる記憶を抑圧する。
つまり、コード化されない流れの表象表現としての胚種の流体を抑圧する。
原始社会においても、交換は知られている。しかしそれは、追放されるべきもの、封じ込められるべきもの、そして厳しく格子状区劃の中に管理されるべきものとしてである。
いかなる流通価値も、決して交換価値として発展しないためにである。
交換価値は市場経済という悪夢を導入することになるからである。
原始的な売買は、等価値のものを決めることよりも、むしろ値切ることによって始まるのだ。
等価値のものを決める事は、種々の流れを脱コード化し、社会体に対する登記様式の崩壊をもたらすことになるからである。
貴族に対する課税と貧乏人に対する貨幣の分配とが、貨幣を富裕者に還流させ、奇妙にも富裕者の負債体制を拡大しいっそうそれを強化する手段となり、農業問題の経済的データからいって当然に起こりうる一切の再土地化を予防抑制することになるが、こうしたことがいかにして起こるのかといったことである。
ニューディールの後で、アメリカ人をあらためて見出す事になるのは、国家のあれほどの重税が事業に対しては好都合であるということであるが、あたかも、ギリシャ人は、自分なりの仕方でこれと同じ事を発見していたかのようでさえある。要するに、貨幣あるいは貨幣の循環は、負債を無限ならしめる手段なのである。