御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りと呼ぶわけにはいきません。
“ああして欲しい、こうして欲しい。金が欲しい、家が欲しい。”
こうした物的欲望に霊界の神霊は、まるで関心がありません。
そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとって、何のプラスにもならないからです。
一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。
そうした祈りには魂の内省があります。
つまり、自分自身の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に神の加護を求めます。
その時の魂の状態そのものが、すでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。
ただ、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが、実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。
霊界側から、あれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。
しかし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強い力を求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。
つまり、その願望が霊的に一種のバイブレーションを引き起こし、そのバイブレーションによって、当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。
危険の中にあっての祈りであれば、保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。
それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている霊もおります。
そうした霊たちは、みな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。
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