もしも私の説く真理を聞くことによって、楽な人生を送れるようになったとしたら、それは私が神から授かった使命に背いたことになります。
私たち霊は、人生の悩みや苦しみを避けて通る方法をお教えしているのではありません。
それに敢然と立ち向かい、克服し、そして一層力強い人間となって下さることが、私たちの真の目的なのです。
霊的な宝は、いかなる地上の宝にも優ります。
それは一旦身につけたら、お金を落とすような具合になくしてしまうことは、絶対にありません。
苦難から何かを学び取るように努めることです。
耐え切れないほどの苦難を背負わされることは絶対にありません。
何らかの荷を背負い、困難と取り組むことが旅する魂の本来の姿なのです。
それはもちろん楽なことではありません。
しかし魂の宝は、そうやすやすと手に入るものではありません。
もしも楽に手に入るものであれば、何も苦労する必要などないでしょう。
痛みと苦しみの最中(さなか)にある時は、なかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一番の薬なのです。
私たち霊は、いくらあなた方人間のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。
そこから教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながらです。
知識には必ず責任が伴うものです。
その責任を取ってもらうわけです。
魂は一旦視野が開かれれば、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。
さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には、人生の教訓は身にしみません。
魂が目を覚まし、それまで気づかなかった自分の可能性を知るのは、時として暗雲垂れこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。