人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。
人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。
人間には全体像が見えません。
物的側面しか見えません。
一人一人に生まれるべき時があり、死ぬべき時があります。
それも全て自然の法則の一環なのです。
あなた方が生命を与えるのではありません。
ですから勝手に奪うことも許されません。
生命は神のものなのです。
神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように法則を用意しておられます。
その永遠の営みを、この地上生活という一欠片で判断しようとすると誤ります。
あなた方は魂と、その魂への反応を推し量る手段を、何一つ持ち合わせていないのです。
苦しみが魂にとって薬になることがあります。
それによって魂の本質が試されることになります。
潜在する資質が呼び覚まされます。
鋼(はがね)は炎の中でこそ鍛えられるのです。
黄金は破砕と練磨によって初めて真の姿を現すのです。
地上生活の出来事には必ず目的があります。
哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは、私たち霊にも分かります。
ですが、地上生活に偶然は何一つないのです。
それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。
医師が判断を誤ることは十分にあり得ることです。
数々の誤診を犯している現実をご覧になれば分かります。
私たち霊は、あなた方人間と正反対の観方をすることがあります。
肉体の死は霊の誕生という観方をします。
混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを災いのタネと見なすことがあります。
永遠を物的なモノサシで計っても、満足のいく解答は得られません。
“なぜ苦しみがあるのか?”
“いたいけない子供が、なぜ苦しまねばならないのか?”
“痛み、病気、面倒、危機、こうしたものが、なぜあるのか?”
そういう疑問を抱かれるようですが、それも全て魂の進化という永遠の物語の一部なのです。
その中には、地上に誕生してくる前に、自ら覚悟しているものもあるのです。
霊的な身支度を整える上で、学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。