一 現実の世界で何に寛大であるべきかを、よく見極める必要があると思います。
残虐行為や邪悪な行為に対しては、いかなるものでも寛大であってはならないはずです。
「それに、 “悪とは何か ” ということも見極める必要があります。
地上生活の究極の目的は、 “死” の後に待ち構えている、次のステージに備えて魂を開発することにあります。
開発するほど洞察力が深まります。
魂が開発され進歩するにつれて、自動的に他人に対して寛大になり、哀れみを覚えるようになります。
これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。
相手は自分より知らないのだという認識から生まれる、一種の我慢です。
人間は往々にして、自分のしていることの意味が分からずに、全くの無知から行為に出ていることがあるものです。
そこが、あなたの我慢のしどころです。
しかし、その我慢は悪を放任し黙認してしまうことではありません。
それは我慢ではなく、目の前の現実に目をつむることです。
真の意味の寛大さには、洞察力が伴います。
そして、いつでも援助の手を差しのべる用意が出来ていなければなりません。」
一 愛と寛容は優しさから生まれます。
情愛でつながった者の欠点に対して、われわれは寛大になります。
私はこの寛大さ、これは愛と言ってもよいと思うのですが、これが現代の世の中に欠けていると思うのです。
愛と寛容を結びつけることが出来れば、人類はさらに高揚されると思うのですが……。
「同感です。
愛とは神の法則のことです。
神の御心です。
なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。
従って、神の御心にかなった生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。
私の言う “愛” とは、慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために、自分の能力の範囲内で精一杯援助しようとする心を言います。
自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために、出来る限りのことをしてあげようとする心、それが愛です。」