帰国から3年が経った。娘は12歳になった。夫とはまだ、離婚していない。別に劇的に夫婦関係が良くなったわけではない。つい先日も、お前といるのは時間と金の無駄だ、と言われた。私はしごく冷静に、そうだよね、私たち根本的に合わないもの。離婚するのがお互いのためだと思う。今までありがとう。今後どうやって離婚するか、親権はどうするか、話し合いましょう、と返した。夫は布団を引っ被ってスマホをいじりはじめる。
それはないんじゃないの?いつも人のこと幼稚園児なみだとか言ってるくせに、今日疲れてて話したくないなら、いつなら話せる?それとも、着の身着のままでてけと言ってるの?と問うが、答えはない。
夫はとうとう泣き出した。なぜ泣くの?と問うと、怖い、と答えが返ってきた。私がいないとダメなの?と言うと、泣きながら何度も頷いている。
夫と私はお互い、初めての交際相手だった。二人とも外見はまあまあよく、高学歴。でも自信がなくてコミュニケーションが苦手という、似たもの同士だった。私は夫に依存して、彼しかいないと執着の極みを尽くし、夫はその関係に甘えて一切私と人間関係を築くことを放棄した。苦手な会話や自己開示をしなくても、セックスの相手がいつも側にいるのだ。夫にとってはある程度居心地の良い関係だったのだろう。私と結婚してくれた。
娘が生まれたとき、目を背けていた現実がやってきた。育児という共通の課題に取り組み、家族にならなければならないのに、私たちには基盤になる愛情や信頼関係がなかった。娘の1歳の誕生日、パーティの準備を一切手伝わず、ずっとサッカー中継をみ続け、準備ができてもテレビから目を離さずそのまま食卓に来て、乾杯もおめでとうも何も言わずに食べようとした夫にキレて、じゃがいもを投げつけた。夫は逆ギレして出て行った。駐在時代を経て、帰国後も私たちは一切会話がなかった。話をしたいと言うと、激怒された。俺は会話が苦手なんだ、なぜ俺に苦手なことを要求するんだ。娘が旅行や、海の話をしても激怒された。俺が海が嫌いなのを知ってるのに、娘が海の話をするのを止めないなんて、お前はおかしい。もう収入が下がって旅行に行けないのに、旅行の話をするなんて、お前は俺をバカにしてる。
お前を愛してないし、お前からの愛情も必要ない。
それが20年一緒にいて、夫から言われたことだった。別の日、また喧嘩になって、深夜に車で家出をしたけれど、2時間経っても夫からは電話はおろかLINEの一通も来なかった。深夜1時に帰宅すると、夫は普通にベッドで寝ていた。
今年の初め、私はふと仲良くなった、若い男の子とデートのようなものをした。友達だからいいんだと自分に言い聞かせて出かけたけど、彼が手を出してきた時、私は彼を冗談めかして睨んだだけで、クスクス笑いながらあっさり受け入れた。彼は背が高くて王子様みたいで、夫が絶対してくれなかったことをいろいろしてくれた。子猫みたいとか言われて、映画みたいなロケーションで恋人同士みたいに見つめあって、スリリングな会話を楽しみ、抱きしめられて俺に甘えていいよ、と囁かれて…。でも、全部フェイクだった。要するにお金が欲しかったみたいだ、自分の趣味に使うお金。あとから調べたのだが、ママ活と名称まであるらしい。世の中なかなか狂っている。
寝てもいないのにお金をせびられて、私はフワフワ浮ついた気分だった背骨に氷を流し込まれた気分だった。そんなに、脅迫されるほど悪いことをしてたのか。その瞬間まで全く悪いと思ってなかった…だって、夫をこれっぽっちも愛してなかったのだから。彼は結婚願望がない、彼女はいないと言ってたから、寂しい人妻と暇つぶしに遊ぶのは需要と供給が合致してるでしょうと、軽く考えていた。遊ばれてるなら、遊ばれてやればいいやと、投げやりな気持ちもあった。
人妻と承知で手を出してくるんだから、当然秘密は守ってくれるんだろう、そんな憶測もあっさり裏切られた。旦那さんに言うよ?と、ニヤニヤ笑いながら脅し文句を言う彼に、いいよ言っても、こんなの、まだ遊びの範疇でしょ?と啖呵を切って帰ってきた。ほんとに、私は可愛くない。あとから、君のやったことは恐喝未遂罪って刑法に定められた立派な犯罪だからねって送ってやろうかと思ったが、あまりに可愛くないのでやめといた。共通の知り合いもいっぱいいるのに、住所だって辿れるのに、これからもあちこちで会わないといけないのに…何を考えてるんだろう。
彼は彼なりに、外見でしか判断してもらえないことに傷ついてたのかもしれない。女なんて、ちょっと言い寄れば俺のことなんて何も知らないくせに簡単に手に入る、きっとそんな人生だったんだろう。簡単に呼び出せて、手を出しても怒らない人妻なんて、私もまた彼にとって最低の女のうちの一人だったに違いない。でも私は、彼の生き方が好きだったのだ。私があっさり諦めたことを、彼は同じ条件なのに形にしてたから。自由で若い彼が、単純に羨ましかった。だいたい初めて話したときには暗くて、背が高すぎて顔なんてよく見えなかった。
あっさり関係が壊れて、彼が一番驚いてるのかもしれない。何も始まってない上に、もう、何もかも手遅れだけれど。
内心軽蔑されていただろうに、一瞬とはいえその気になった自分があまりに惨めで屈辱的で、泣く気にもなれなかった。まぁ、おばさんが若い子と半日いちゃつけたんだからそれでいいや、寝る前でよかった、好きになる前でよかったと割り切って、彼とのことは忘れようと努めた。でも、彼に抱きしめられたせいで女性ホルモンが分泌されて恋愛体質になってしまったみたいで、夏以降、前から付き合いのあった独身男性二人から告白されてしまった。一人はイケメン君よりさらに歳下で、13も離れている。もう懲り懲りだけど。
イケメンの力はすごい。イケメンをただ顔がいいだけと侮ってはいけない。今まで男性に好意を見せられても、素敵な人ならからかってるか社交辞令、素敵でない人ならこの程度の男に釣り合うと思われてると、まったく心を開けなかったのだけれど、あの自信満々のイケメン君が、外でイチャつける程度には私をいいと思ってくれたんだというのは、根本的な意識の変革をもたらしてくれた。モテない女の体質改善に、イケメンのハグ。こっちの事情なんて一切お構いなしで、リスクを考慮せず手を出す彼は、慈善事業をやってるのだろうかという気すらしてきた。やっぱりお金を払うべきだろうか。
夫に対しても、お金をせびらず、逆に生活をさせてくれてるというだけで感謝の気持ちが溢れてきた。相変わらず会話はないけれど、夫が号泣した夜から、少しお互いを隔てる壁が壊れてきたような気もする。そんなわけで、今は恋人募集中、夫は恋人候補の一人、と思って生活している。
愛情とは、求めるものではない…大人の女になろうとする過程で、ようやくその言葉の意味が分かった気がする。