なんというか、非常に気分が焼け野原である。政府の意に沿わないもの、反社会的なもの、雑多なもの、そういったものが、コロナ撲滅の美名のもとに、さながら火に炙られた雑草の茂みのごとく、端の細いところからちりちり焼け焦げて炭化していくのを、なす術もなく眺めているんである。私自身はギャンブルもしなければタバコもやらず、お酒だってたまに嗜む程度。人付き合いも悪い。だからといって、そういったもの、例えば夜の繁華街とか、ギャンブル狂いとか、アルコールや薬物依存、みたいな、闇の部分が存在しない、蛍光灯で隅々まで均一に味気なく照らされた無菌状態の世界、というのも、どうにも想像できない。人間は弱くて、美辞麗句や建前だけで生きていくのは無理だ。
例えば今、劇作家なんて連中は、不要不急だとして切り捨てられようとしているらしい。こういう人たちは往々にして、反権力で無政府主義的で、パンクな思想を好む傾向があるから、お偉い人には疎まれているんだそうだ。一説には来年3月までに小規模劇団のようなものは数が1/2になるという人もいる。いや、もちろん、コロナショックにおける芸術文化団体への助成はあるし、現場に近い担当の人たちは出したがっている。ただ、中枢の人たちは、本来ならそんなものにビタ一文出したくない、というのが本音なのだそうだ。そのために提出書類が膨大だったり、申請が煩雑だったり、様々のハードルがあるらしい。まぁさもありなん。だからって、劇作家が前衛的なものを作るのをやめて、大衆や権力に迎合したものを作ったら、その存在意義を失うわけで。だったら、この状況下で、いかなる反骨精神が惹起されるのかに期待すべきなんだろうか?いやはや、なんとも、焼け野原な気分である。焼け野原からの新たな芽吹きを期待せよ、というのは暴論だが、そのくらい”生きた”ものじゃないと、心に響かないというのもまた真実で。芸術は、爆発だ。
そして、ますます人本主義が隆盛を極めようとしているのもそら恐ろしい。ウイルスは人知によってコントロールされるべきで、科学は万能で、ヒトの英知は必ず最終的に勝利する。祈る人間は、ウイルスとの戦いを放棄した敵前逃亡兵かウイルス拡散のリスクファクターといったような扱いだ。祈るような気持ちです、と、テレビのコメンテーターは言うが、その対象は神ではないのだろう。なんでもいいのだ、たとえばネット界隈ではアマビエという疫病の妖怪?に祈ったりしている。イワシの頭も信心から。信仰の対象は、むしろイワシの頭がいいというのが日本人だ。国難といいつつ、天皇の神道の大祭祀としての役割が報じられたことも寡聞にしてきかない。
人は、本来自由なのだ。私はイエス-キリストを信じて初めてそのことに思い至った。宗教の本質は、人を縛るものではなく、罪から解放し、自由を与えるものなのだが、残念ながら全ての宗教はあっという間に儀礼化し、陳腐化し、有名無実になる。口伝律法を山のように作ったユダヤ教、秘蹟を重んじて儀礼化し、宗教改革を招いたキリスト教、本来自ずからの悟りを得させる思想体系だったはずが、衆生を救う大乗仏教へ変化し、さらに日本では単なる弔いのための儀礼となった仏教。どれも辿ったのは同じルートに見える。雑多な贅肉をつけ、ローカル宗教と化し、普遍性を失うのだ。本質を追求するよりも、誰か権威のある人間の言うことに従ったり、前例を踏襲するほうが、よほど楽だ。人は易きに流れるものだ。そもそも、他人を支配する醜い欲望のために作られた宗教もある(カルト宗教など)。
こんなもの、誰が読むんだろうと思いながら書いている。日本の人口の1%未満のクリスチャンの中でも、私はやっぱり浮いた存在だ。物心ついたときから社会不適合者だった。そんな自分を受け入れられず、疎外感に苛まれ、人にも社会にも絶対に影響を与えまいと40年近くを生きていた。怒りを奥底にマグマのように湛えて、それに蓋をしていた。グレる勇気もなかったし、ひたすら穏便に、傍観者として全てを無難にやり過ごすのがかつての私の人生の目的だった。
今私は社会不適合者じゃなく、この世不適合者だったのだと思って納得している。あなたは天に国籍のあるものでこの世では寄留者だ、この世と調子を合わせるな、という聖書の命令は、どうしても合わせられない人にとってはこの上ない福音なのだ。私はドロップアウターだったし、これからもそうだ。コロナパンデミックで、むしろ死んでしまえばよかったけれど、どうやらこのストリームからも落伍したらしい。
一体、この世界がどこへ向かうのか、私は焼け野原に立って蕭然と眺めるのだ。願わくば、今までのような捻くれたside glances ではなく、真正面から見てみたいと思っている。
(どうも、ここ数日ものすごく落ちていて、気分が沈みがちだとこういうものを書いてしまうという記録。)