瀬戸内寂聴の暴飲暴食 性欲開放しすぎ問題 実はそれほど大した問題じゃない

というのを2年ほど前に書いたのですが、これに少し補足したくなった。

冒頭の「瀬戸内寂聴の暴飲暴食~」の内容はざっと簡単にまとめると
「仏教徒にとって大事なことは涅槃することである。少ししか食べなくても、結婚相手としか性交してなくてもそれは煩悩による行為であり、暴飲暴食、淫乱行為とさほど違いはない。大事なのはそういうことではない」といった内容です。

だけど、仏教徒が沢山食べすぎる行為はやはり問題かな~と昨夜思ったりしたわけです。

どうしてかと言うと人が食べてるものは生前に煩悩をもって生きたものたちである。
彼らも食べられたりする行為は嫌なはず。
彼らにも煩悩が認められ、そして輪廻しつづけて苦しんでいる。
がしかし、彼らはその輪廻地獄から開放されることはない。
そして仏教徒はその事を知っているはず。

人しか輪廻から逃れることはできない。

釈迦が考案した「涅槃」というのは生物的に不自然な人工的作業なわけで、これを家畜や植物が実践するに至るはずもない。

言葉が通じないから「涅槃」の必要性を教えることすらできない。

釈迦は「涅槃」という発明をして以来、死ぬまでの間に自分の話を聞いてくれるものにだけに涅槃の必要性と涅槃方法を教えて回った。(聞いてくれない者に時間を割くことが惜しいから。)
その間「托鉢:たくはつ(働かずに食べる行為)」をして生きた。
働いている時間が惜しいから。
涅槃方法を少しでも多くの人に教えるためにとった行動である。

そして涅槃するにはある程度の修業が必要でなので死んでしまう前に涅槃方法を取得しなければならない。
釈迦からこの世の真実を教えてもらったからと言って即涅槃するわけでもない。
働いている場合ではないと弟子たちも釈迦に習って托鉢した。
死んでしまう前に涅槃できるようにならなければならないから。

仏教徒は托鉢時に食べる行為と涅槃することができない生き物たちへの慈悲心とのぶつかり合いを常にしていなければならないはず。
(涅槃できる可能性がある人への配慮もする必要があるね。)

そして涅槃する準備が整った人も又同じ。

生きるために食べる行為は仕方がないけれど、不必要に食べる行為を仏教徒は慎まねばならない。
たとえ食べたとしても喜々としてその事を語る行為も慎まねばならない。
涅槃する気がない涅槃先延ばし型仏教徒もである。

仏教とはそういうものである。

無駄に食べない。
そして屠殺の方法が無苦痛になるようにしていくことが大事だと思う。

瀬戸内寂聴さんはそういった配慮が欠けていた。

(c)西田夕夏