元の世界への空間と、この世界で俺を支えてくれた2人を前に、俺は最後に1つだけ、この世界でやっておきたいことが残っていることに気づかされた。

「未来、時也、一つ頼みがあるんだ。」

その希望は、とっさのことであったため、何も準備はしていなかった。しかし、未来が想定して、あらかじめ準備をしていてくれたおかげで、それは叶えられた。

こちらの世界での全てに区切りをつけ、改めて真人と絵玲奈に感謝と別れを告げ、手を振った。2人が笑顔で見送ってくれたことを確かめられると、俺はもう振り返らずに、現実時間に戻っていった。

笑顔で別れた後、俺も2人も、お互いに見ることはなかったが、涙を流していた。

現実時間に戻っていく途中、未来と時也が俺に尋ねた。本当に、現実時間に戻ることに、もう何の迷いも無かったのか、と。

迷いが全くなかったといえば嘘になる。振り返ってしまえば、きっとまた迷いが生じてしまっただろう。それでも、もう一度、現実時間でやってみようという決意と、真希と子どもたちへの想いが、最終的に決め手となった。

目の前が急に明るくなり、拓けたかと思うと、俺は病院の天井を見ていた。意識を取り戻した俺に、真希が抱きついてきた。

「お帰りなさい…。心配したじゃない、バカ。」

「ただいま、帰って来たよ。」
「頼む、最後だから、絵玲奈と話させてくれ。」

俺は絵玲奈のそばに行った。どこか、これまでの思い出を懐かしむように、それでいて、
脆いガラスのような彼女の笑顔が、俺の心を締め付けた。

絵玲奈は微笑み、そして、改めて俺に尋ねた。

「前に、亮介君は私に言った。私たちが恋人になれないのは、運命なんだって。」

「ああ、そうだったな。」

「未来の私は、亮介君が知らない人生を歩んでいるんだよね、きっと。」

「そうだ、それぞれの人生を歩んでいるよ。」

「それでも、未来のあなたは、あの時、私のことを好きだったんだよね。私を、幸せにしてくれようとしてくれたんだよね。」

「うん、そうだね。あの時の気持ちは、間違いなくそうだった。」

俺の気持ちを確かめると、絵玲奈はストレートに、隠すことなく、その胸の内を打ち明けた。

「お願い…キスして。ただ1度だけでいいから、恋人として、私に、お別れのキスを。」

俺は絵玲奈の肩をそっと優しく抱き寄せ、最初で最後の、恋人同士としての口づけを交わした。

少し長いキスが終わり、絵玲奈の瞳からは、大粒の涙がこぼれていた。

別れの辛さのせいだけではなかった。それ以上に、自分の存在が、亮介の中から消えてしまうかもしれない悲しみが、絵玲奈の心を、どうしようもないほどに締め付けていた。

「このまま、今という時間が、永遠に止まってしまえばいいのに…!あなたから真実と決意を告げられて、私も覚悟を決めて、最後のお願いをした。そのつもりだったけど、やっぱり、大好きな亮介君との別れが、胸が痛くて、張り裂けそうなくらいに、辛いよ…、苦しいよ…。」

絵玲奈の瞳からは、涙が溢れて止まらなかった。そして、彼女の決意とささやかな願いが、続く言葉には突き詰めて表されていた。

「どうか忘れないで、私たちがここで、共に過ごしたことを。」

「忘れないよ、絶対に。たとえこれが、一瞬の幻だったのだとしても、君たちと過ごしたこの時間を、俺は決して忘れない!」
そこまで俺が話すと、真人が鋭い声で引き止めにきた。真相を知った今、このまま何もせずに戻らせはしまいと思ったのだ。

「亮介、ここでの生活も良かったって言ってくれたじゃないか!だったら、これからも俺たちと…!」

「ありがとう、真人。みんなと過ごしたこの約1年の時間が、俺にもう一度、人生を前向きに生きるためのきっかけを与えてくれたんだ。向こうの世界で、妻と子どもたちを残して、やり残していることを、そのままにするわけにはいかないんだ。」

真人はしばらく俺の方を見据えた。そして、俺の決意を知ると、真人はそれ以上、何も言わなかった。彼自身が、親友として俺にかけるべき言葉は、『今』に留まらせることではなく、然るべき『未来』の人生を全うさせることだと思ったからだ。

「そうか…。お前がそう決断したんなら、俺たちができることはもう、お前を黙って見送るだけだ。お前が、向こうの世界で、後悔の無い人生を送ってくれることを、願うだけだ。」

「ありがとう、真人。」

真人の言葉が、俺は嬉しかった。2人に巡り会い、同じ時間を共有できたことは、かけがえのない財産だと思った。名残惜しい時間はまたたく間に過ぎていき、空が少しずつ明るくなり始めているようであった。

「さぁ、もう行くわよ!夜明けまで、あと30分くらいだわ!」

「分かった、今行く。それじゃあ、今までありがとう!もう、行かないと…」

この世界への未練を断ち切り、空間へ飛び込む準備を整えようとした、まさにその時であった。

「亮介君!」

全身から発したような叫びで、絵玲奈が俺を呼び止めた。

夜明けが近づいており、リミットの時間が迫ってきていた。それでも、まだ少しは、みんなと過ごせる時間が残されていた。
「亮介君、これは…!?」

「はは、変な蒼い空間が広がっていて、妙な格好した子どもが2人浮いていて。俺たち、夢でも見ているのか…?」

目の前の非現実的な光景を前に、2人はあっけにとられていた。俺は2人に落ち着いてもらうように、できるだけいつもの調子で話し始めた。

「驚かせてゴメン。でも、今起きていること、そして、これから話す話は、全て現実だから、聞いてほしい。」

そう前置きをし、呆然としている2人に、俺は今まで話せずにいた真実を話しだした。

「俺は、未来から来たんだ。うだつの上がらないサラリーマンやっていて、普通の家庭を持って生活していた。この2人が、俺をこの世界に呼んだんだ。本当に偶然がいくつも重なって。」

そう俺が告げた瞬間、真人と絵玲奈の表情が凍っていた。瞳を大きく開き、驚き・混乱・動揺、それらが全て感情が混ざり合っているようであった。

「この世界に来たとき、せっかくタイムスリップして、高校時代に戻って来れたんだから、今度こそ輝ける高校生活を、後悔のない生き方をしようと思った。実際には、向こうの時間での高校生活では、何も成していなかったからさ。」

次々と明かされる衝撃的な現実に、2人は言葉が出ないでいた。ただ、目の前の状況にも慣れてきて、次第に落ち着きを取り戻していった。そして、今起きていることが現実であることを受け止め始めた。

「そうは言っても、最初は、元の世界に戻れる方法が見つかったら、すぐに戻るつもりでいた。向こうで、家族が心配しているだろうし。だけど、こうして時間が経っていって、実際に戻れるということになって、それが片道切符だって分かったとき、自分でも思っていた以上に迷いがあることに気づいた。ここでの生活は刺激的で、楽しくて、向こうではできなかった、新しい人生を築いていけるんじゃないかと思った。そしたら、ここに残るという選択肢もあるんじゃないかって、次第に思うようになってきた。」
その日はもう夜も遅かったが、俺は電話で真人と絵玲奈に呼び出しの連絡をした。メールではなく、言葉で直接頼みたかったのもあった。

「真人か、ちょっと話したいことがあるんだ。」

「絵玲奈、どうしても話したいことがあるんだけど…。」

2人とも、呼び出しの理由を尋ねてきたが、そこは当日に話すから、今は聞かないでくれとお願いし、夜明け前の1時間ほど時間をもらいたいことを話した。

訝しまれつつも、事前に家族に話し、朝食前には戻ることを条件に、最終的には2人とも了解をもらうことができた。

そして当日、5時になる少し前に自然に目が覚め、簡単に身支度をした。そして、居間のテーブルで眠ってしまっていた明日香に毛布をかけてやり、再び電気を消すと、俺はそっと家を出た。

その頃、真人はわけもわからず、とりあえず指定された場所に向かっていた。同じく、絵玲奈は少しだけ淡い期待をしつつ、そこへ向かっていた。2人は途中で合流し、ともに俺に呼び出されたということを知った。

「何か珍しいものでも見つけたのか?」

「隠れスポットのような、とっておきの景色でもあるのだろうか?」

そんな推測をしながら、真人と絵玲奈は俺が指定した場所に近づいてきた。

その場に着いた直後、2人は言葉を失った。目の前の景色が、現実のものだと受け入れがたい様相であったのだ。

「大事な話があるんだ。」

元の世界へとつながる蒼い空間を前に、俺は真人と絵玲奈に、今まで話せずにいた真実を、ようやく話すときが訪れた。