本「クララとお日さま」By カズオ・イシグロ@早川書房(2021年) | 明日もシアター日和

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観たもの読んだものについて、心に感じたことや考えたことなど、感想を綴ってみます。

 2015年「忘れられた巨人」以来の新作長編小説。今回も深く感動しました🎊  イシグロの小説で特に好きなのは「日の名残り」と「忘れられた巨人」ですが、本書は「わたしを離さないで」を少し思わせます。福田利之さんによるカバーの挿画も素敵🌞

 

 

 

💥Caution❗️ 以下、完全ネタバレ💥 結末に触れています‼️

 

 長くなってしまった💦あらすじ→物語はクララという名のAFの回想で、一人称で綴られる。AFとはArtificial Friend=人工の友達のことで、人工知能を搭載したヒューマノイド。太陽エネルギーによって動く。AFは裕福な親が子供に買ってあげるモノのようで、子供の遊び相手・話し相手になって孤独を癒し、子供の面倒をみて、必要とあれば助けるように造られている。

 クララは観察と学習への意欲が強く、また人の感情という不可解なものに興味を覚え、それを少しでもよく理解したいと思っている。ショップに陳列され買われるのを待っていたクララは、ジョジーという14歳の少女に購入される

 その世界では、子供はある時期に「向上処置」と呼ばれる知能の遺伝子編集を受けることで進路が開けるシステムになっている。経済的理由や親の意向で「向上処置」を受けなかった子供は差別的待遇を受ける。

 ジョジーは、おそらく「向上処置」の副作用で病を抱えており、自宅で遠隔授業を受けながら進学を目指しているけど、病状が悪化し命が危ぶまれるまでになる。一緒に生活するクララはジョジーの命を救いたいと思い、第1の行動に出る。それがうまくいかないことが分かって第2の行動に出ると奇跡が起こり、ジョジーは全快する。

 数年後ジョジーは大学に進むことになり、不要になったクララは廃品置き場に持っていかれる。もはや体は首しか動かせないけど、クララはそこで記憶の断片を集め過去を思い起こし、自分の満ち足りた人生に幸福を感じながら終わりを待つ🙏

 

 クララ自身が自分は幸福であったと思うことで、こちらも幸福感を共有できる、でも果たしてそうなの?と疑問が湧くと、切なさと悲哀がこみあげる。残酷で温かい、絶望的に見えるけど救いはある……そんな複雑な気持ちになった読後でした😢

 

 あらすじに書いた、ジョジーを救うためのクララの第1の行動ですが、ソーラーパワーで動く(太陽から栄養をもらう)クララ太陽を神格化していて、太陽は人に何らかの良い影響を与えるものと信じている。その世界では大気汚染が深刻なんだけど、巨大な道路工事車両が吐き出す大量の黒煙が太陽光を遮るのを見たクララは、それこそが太陽が嫌う汚染を産むものと思い込み、その車両を破壊するので「特別の栄養」をジョジーに与えてと太陽にお願いするのです。

 車両を破壊するには自分の体内にある特殊な溶液を抜き取り車両に注げばよいけど、そうすると自分の認知機能が低下する。クララはそれを承知で実行します。この無償の献身、究極の自己犠牲……😭 でもこの、太陽を盲目的に信仰するところに、クララの強さや純粋さと同時に幼さ・もろさを感じるのです。

 

 物語ではさまざまな問題提起がされている。例えば人間にもAFにも社会的格差があること。それゆえ排他主義的コミューンが生まれつつあること。あるいは、子供に対する親の愛情、環境汚染 etc. でもイシグロはそうした社会問題を盛り込みながらも、最終的には人間の在り方により強い興味を抱いてますよね。

 

 私も本書で最も強く考えさせられたのは人の心、生の意味です。ジョジーの母はクララにジョジーのすべて(行動の癖)を学習するよう頼みます。ジョジーの命が長くないと覚悟した母にはある計画があって、それはジョジーそっくりのヒューマノイドを造っておき、ジョジーが死んだら、学んだ全てを持ってクララがその中に入り、ジョジーとして生きてもらうこと。クララが「私の体はどうなるのでしょう」と尋ねると「どうでもいいことじゃない? だって、ただの作り物だもの」なんて言っちゃいます😖

 でもその計画に反対する父はクララに問う。「人間一人一人を特別な個人にしている何かがあるとして、ジョジーを正しく学習するには表面的なことだけでなく、ジョジーの奥深い内部にある何か、ジョジーの心も完全に習得しないといけないだろう」と。

 結局、母の計画は頓挫しますが、時間があれば人の心を学習できると思っていたクララは最後に理解します。「外見上ジョジーの完璧な再現ができたとしても……人々の心にあるジョジーへの想いの全てには手が届かなかったでしょう」。父の言った「人間一人一人(ジョジー)を特別な個人にしている何か」はジョジーの中ではなくジョジーを愛する人々の中にある、人の心にあるジョジーへの思いこそ特別なものなのだと。人を人たらしめるものとは? 人は他人が在ることで存在する? そんなことを考えました。

 

 クララはジョジーと暮らした日々を幸福な体験だったと肯定し、自分が廃棄されたことに不満はなく、空が広く見渡せるその場所に満足している。AFに感情や心はないのだけど、それに似たものがクララの中に芽生え出していたのでは?と思ったりします。そうだとしたら結末は悲痛すぎるけど😢

 

 

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