ダイヤと学ぶ日本史~鎌倉幕府の滅亡~ | あき@旅するトリコニコ会

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先日から放映されているアニメ『逃げ上手の若君』を観て主人公である北条時行について書こうと思います

源頼朝が開いた鎌倉幕府は後鳥羽上皇ら朝廷との対決である承久の乱や三浦家などの有力御家人を粛清・将軍家を完全なロボット化(宮騒動)することで執権北条家が権力を独占。さらにその直系である得宗は並ぶ者の無い力を握りました。さらに中世日本最大の国難である元軍の侵攻(元寇)を跳ね返しました。

しかし侵攻に立ち向かった主に九州の御家人達はろくな恩賞は無く(恩賞は主に敗者の土地が与えられたが海外勢力である元では与えられる土地は無い)戦後も元に備えた異国警固番役は彼らに重い負担を課せられ没落する御家人も現れました。彼らの中や幕府に不満を持つ者は悪党とよばれる人になりました(楠木正成など)

文保2年(1318)、後醍醐天皇(1288~1339)が即位。当時天皇家は持明院党と大覚寺党に分裂しており幕府は交互に天皇に即位せよと裁定していました。後醍醐天皇は幕府の弱体化をみて何度も倒幕を計画するも失敗。元弘2年(1332)の失敗では自身が隠岐島に流罪となりました。


その後、倒幕の機会を窺っていた後醍醐天皇の息子である護良親王(1308~35)は吉野、前年から倒幕活動に参加した楠木正成(1294~1336)は河内で挙兵。幕府は100万を称する大軍を差し向け護良親王を降伏させ正成が立て籠る千早城(現在の大阪府千早赤阪村にあった城)を包囲。正成が率いる兵はわずかでしたが巧みな戦術で幕府軍を翻弄。千早城での苦戦は反幕勢力を力付け元弘3年(1333)、播磨の御家人である赤松則村(円心・1277~1350)が挙兵。後醍醐天皇も隠岐島を脱出。伯耆国に入りました。幕府は後醍醐天皇を討つべく足利高氏(1305~58)らを派遣(アニメ1話冒頭の出陣シーンはここのもの)。しかし高氏は丹波国篠村八幡宮(現在の京都府亀岡市)で倒幕派に寝返り、赤松と共に京の幕府の出先機関である六波羅探題を攻撃し5月7日、これを滅ぼしました。六波羅探題にいた北条家の者は東国に逃れるも近江国で倒幕派の佐々木高氏(道誉・1296~1373。婆娑羅大名としても知られる)に追い付かれ蓮華寺(現在の滋賀県米原市)でみな自決しました。


六波羅滅亡の翌日、上野国で新田義貞(1301~38)が挙兵。義貞の下には高氏の息子の千寿王(のちの2代将軍足利義詮・1330~67)ら豪族多数が合流。義貞は小手指原(現在の埼玉県所沢市)、久米川(現在の東京都東村山市)、分倍河原(現在の東京都府中市)で幕府軍を撃破し義貞軍は鎌倉に突入。もはやこれまでと悟った得宗家当主北条高時をはじめとする北条家一族や重臣800名は北条家菩提寺である東勝寺で自決。ここにおいて鎌倉幕府は滅亡しました。

高時の息子邦時と時行は鎌倉から脱出するも邦時は伯父の五大院宗繁(生没年不明)に裏切られ鎌倉で処刑。9歳でした。時行は得宗家家臣で諏訪大社大祝(おおほうり、神道の職名)である諏訪頼重(盛高・?~1335)に匿われ信濃国諏訪(現在の長野県諏訪市)に逃れました。