ダイヤと学ぶアフリカ史~マフディーとマフティー~ | あき@旅するトリコニコ会

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先日歴史雑誌でマフディー戦争について書かれた特集を読んでいたら「あ、これマフティーと何か関係があるんじゃね?」と思い今回のネタとします(メインの内容はマフディーです)。

 

ちなみにマフティーとはアニメ『機動戦士ガンダム・閃光のハサウェイ』に出てくる反地球連邦組織「マフティー・ナビーユ・エリン(正当な預言者の王、の意。アラビア語と古アイルランド語を組み合わせた造語)」のことです。そのリーダーであるハサウェイ・ノアの偽名としても使われます。ハサウェイの両親は一年戦争以来の歴戦の軍人ブライト・ノア大佐とミライ・ヤシマ。

宇宙世紀0105年、腐敗しきった連邦政府と地球環境の汚染に憤るハサウェイ(マフティー)は地球連邦政府に攻撃を仕掛けるが乗機クスィーガンダムが撃墜され捕虜となりました。マフティー討伐の指揮官ケネス・スレッグ大佐はハサウェイ・ノアではなくテロ組織の首謀者「マフティー」として処刑しました。

 

そして今回のメインテーマであるマフディーですが19世紀のスーダンで起こった反乱の指導者がこう称しました。地球連邦を「英国」に置き換えてもしっくりきます。19世紀末期のスーダンはオスマン帝国から独立したエジプト(ムハンマド・アリー朝)が支配していました。しかしそのエジプトも英国の強い影響力をうけており実質英国の属国と化していました。1881年6月29日、スーダンの宗教家ムハンマド・アフマドがマフディーを称しました。マフディーとは「救世主・導く者」を意味し彼の布教はスーダン中に広まりました。しかし彼の思想を快く思わないイスラム宗教関係者はエジプト政府に不届きな思想を広めている者がいると密告。政府は1883年、討伐軍を組織しますがムハンマド・アフマド(以後マフディーと称す)はジハード(聖戦)を宣言。彼らの装備は槍と剣というみすぼらしい者でしたが士気は高く討伐軍をアル=ウバイドという町で一蹴。エジプト軍の遺棄した兵器を回収しマフディー軍の装備が強化されました。英国人将校に率いられた討伐軍を再び破ったマフディー軍はスーダン西部を支配するまで拡大しました。

 

マフディーの乱は英国にまで伝わりスーダンの維持は利益が少なく割に合わないことからいくつかの町を除き放棄を決定。エジプト政府に放棄するよう命じますが政府は難しいと回答。なので英国政府は在スーダン邦人及び外国人の引き上げの指揮を行う任務を今回のもう1人の主人公、チャールズ・ゴードン少将に託しました(ただ英国政府や在エジプトの邦人の中にはゴードンは好戦的な性格で融通が利かない性格だからやめるべきだという声があった)。ゴードンは少佐時代、アメリカ人軍人のフレデリック・ウォードが組織した常勝軍の後任指揮官(ウォードは1862年に戦死)となり太平天国の乱鎮圧に貢献。「チャイニーズ・ゴードン」の異名を取りました。ですが以後ゴードンはスーダン総督やインド総督を歴任しましたが地方のドサ回りばかりで中央の要職に登用されないまま1882年に少将に昇進。そして1883年12月、ゴードンを2度目のスーダン総督に任じました。翌年2月にゴードンはハルツーム(英語だと「カーツーム」(マフディー戦争を描いた映画のタイトルにもなっている))に赴任。調査の結果、このままの撤退は困難ゆえ援軍を出して欲しいなどの報告を政府に届けました。しかし英国政府はこれを拒絶したためゴードンは手持ちの兵のみでなんとかする必要に迫られました。

まず退路である北への掃討作戦を行いますがエジプト兵は士気が低くマフディー軍にあっさりやられたためゴードンは邦人及び外国人の脱出作戦を行いつつハルツームで籠城作戦をやるべく準備を進め4月までに撤収を完了したがマフディー軍はハルツームに迫ってきており孤立無援の状況に陥りました。

 

ゴードンのピンチが本国に伝わるとゴードン救出せよという世論が広まりそれを無視しきれなくなると政府は別件でエジプトにいた英軍にゴードン救出を命じました。しかし歩兵が主力のため到着に時間がかかり、その英軍もマフディー軍と交戦するなどしてさらに時間を費やしました。1885年1月28日、先遣隊がやっとハルツームに到達したがその2日前にハルツームは陥落しておりゴードンも戦死しスーダンもわずかの町をのぞきマフディー軍の手に落ちました。ゴードン戦死のニュースが届くと世論は増援が間に合わなかったことを批判。責任を取りグラッドストン内閣は総辞職しました。

同年6月22日、「マフディー」ムハンマド・アフマドが病死。彼は3人の後継者を定めましたが彼らは仲間割れを始め勢力が衰えるもエチオピア遠征を行い皇帝ヨハンネス4世を討ち取りエチオピア軍を降伏させました。1898年、ホレイショ・キッチナー率いる英軍がスーダンに侵攻。9月2日、オムダーマンの戦いでマフディー軍を破りマフディー政権を崩壊させました。ムハンマド・アフマドの墓は破壊され遺体はナイル川に捨てられました(頭蓋骨はキッチナーが戦利品として持ち帰ったがのちに戻され墓も再建された)。

こうしてマフディー政権は崩壊したものの彼の子孫がスーダン独立後に政権を担ったこともあり(宗教的指導者としての側面も有している)彼らが支援したウンマ党はムハンマド・アフマドの政治的な後継者という立場を示しています。