『さむけ』 - ロス・マクドナルド | Down to the river......

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ある人や家族、団体(会社等)や地域等とある程度関係を持つと、「薄々と」気づく事柄があります。
裏事情と言うほど大袈裟なことではありませんが、表立って言うにははばかれる内情と表現すれば良いのでしょうか……。

多くの場合、断片的なことしか気づかないので、その隙間を想像(妄想)で繋ぎ合わせて1つの全体像を作り上げることになります。
なので、その後真実を知らされた時に、少なからずキャップが生じます。

僕の場合想像(妄想)が、真実より悲観的であることが多いのです。

最近も同様なことがありました。思っていたほど悪い状況ではなかったので良かったのですが……。

時々他人に「心配性」だとか「用心深い」と言われることもあるのですが、このような性質は自分自身でも自覚しているところです。

ところがこの僕の性質は、家族のみならず親戚関係をみても、同じような感覚を持った人を見出せないのです。

「疎外感」とまでは言いませんが、家族や親戚と関係を持つ時、違和感に似た居心地の悪さを随分前から感じていました。

前にも書きましたが、僕の母親は2度死にかけています。
つまり比喩的ですが、僕は擬似的に母親が2度死んだ経験をしている、とも言えるでしょう。

1度目は10歳にも満たない幼少の時だったので、これが僕の深層心理の底である種の「トラウマ」になっているのかな、と最近まで思っていました。
「失うことの恐怖心」が他人より強いのではないかと。

しかし——。


人は失ったもので形成される。人生は失うことの連続だ。失うことでなりたかった自分になるのではなく、今の自分になる。
——アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ


と今年の正月のエントリーでこの言葉を引用しましたが、そう考えると僕だけ特別な体験をした、とは言い切れないでしょうね。

もっと別な要因があるのではないかと最近考えていたのですが、思いついたのは、10代の頃読んでいた「ロス・マクドナルド」の小説の世界観からの影響が少なからずあるのではないか、と感じ始めました。




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 ロス・マクドナルドが死んだ。
 ロス・マクドナルドが死んじゃったことで、ひとつの流れが終ったんだな、と僕は思う。そう思われつつ死んでいくことは、作家にとってひとつの勲章であるかもしれない。あるいはその逆かもしれない。
 正直言って晩年のロス・マクドナルドの作品は日本ではあまり高く評価されなかったように思う。

——『象工場のハッピーエンド』:村上春樹


最近の若い読者の中には、この村上春樹さんの文章が、ロス・マクドナルドの作品を読むきっかけになった人も多いのかもしれません。

僕は村上春樹さんを知る前から、スコット・フィッツジェラルドやレンモンド・チャンドラー、そしてロス・マクドナルドの作品を読んでいました。

自慢と言えば自慢なのですが(^^;、冷静に考えれば読む順番なんてどうでも良いものですよね(笑)。

ところでこのロス・マクドナルド、現在ではすっかり忘れ去られてしまった作家のように、町の普通の本屋さんには彼の本が置いてないみたいです。
ネットか都心の大型書店でないと入手出来ないみたいです。

ハメット、チャンドラーを継ぐ「正当派ハードボイルド」の巨匠として評価が定着していますが(「ハードボイルド御三家」)、実際読んでみると、これは果たしてハードボイルドか、と思えるほどの文学性の高さを感じさせます。

ハードボイルドの域を超えたと思える作品であるので、むしろ「純文学」として読んだ方が期待を裏切らないのでは、とも感じています。

ロス・マクドナルドが他のハードボイルド作家と比べて人気が低いのは、エンターテーメントとしての娯楽の要素が少ないからでしょうね。


 僕はロス・マクドナルドのリュー・アーチャーものはみんな尻尾の先まで好きだ。ロス・マクドナルドの小説の美点は、そのシャイさとまじめさの中にある。もちろん欠点もその中にある。でもそんな何もかもひっくるめて、僕はロス・マクドナルドの小説が好きである。
——『象工場のハッピーエンド』:村上春樹


そんな彼の作品で最高傑作と呼ばれるものが『さむけ』です。




$Down to the river......-さむけ




ロス・マクドナルド作品の特徴である「暗い、重い」雰囲気が存分に発揮された代表作です(1964年の CWA〈Crime Writer's Association、イギリス推理小説作家協会〉賞次点を獲得)。


私立探偵リュウ・アーチャーは実直そうな青年アレックス・キンケイドに、「新婚旅行中に妻のドリーが消えてしまった。探してほしい」と依頼される。
アーチャーはドリーが大学に通っていることをつきとめ、彼女をアレックスのもとへ連れ戻そうとするが拒否される。
また、大学でのドリーの主任教授であったヘレンに面会したアーチャーは、彼女から何者かに電話で脅迫されているので身を守ってくれと頼まれる。
脅迫がドリーの件と関係があるのかというアーチャーの問いに対し、ヘレンは確かではないけど関係があるかもしれない、自分が生まれ育ち、そしてそこから逃げ出した町ブリッジトンで全ての事が起こり、私を殺すという電話の脅迫の声は、自分に追いついたブリッジトンの過去からの声なんだわ、と言った。ヘレンの言葉を信じきれなかったアーチャーは依頼を断り、その夜ヘレンは殺されてしまい、「自分のせいだ」と精神錯乱状態のドリーは容疑者にされてしまう。
ドリーが背負っている過去に注目したアーチャーが辿り着いた真実とは……。


というあらすじです。

そして最後には驚愕の真相が明らかになります。

蜘蛛の濡れた足のようなものがわたしのうなじを走り、一瞬、髪の毛が逆立った」と本書に書かれているような戦慄——文字通り凄絶な「さむけ」を感じさせます。

しかしながら、読後の充実感は他の作家では味わえない深いものがあり、最後の最後で明かされる衝撃の真相には、緻密な文体による疲労も加わり、麻薬的な陶酔感に耽れると思います。




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ロス・マクドナルドが描く世界は、(当時の)アメリカの家庭(親と子)の悲劇と、その裏返しの社会的病理の問題です。

事件の手口そのものよりも、事件の背景に潜む複雑な愛憎関係を暴き出し、真実にせまるという作風です。

結果として人の心の動きに肉薄し、孤独な現代社会がかかえる問題点を浮き彫りにさせます。

よく指摘される彼の作品のテーマが「エディプス・コンプレックス」(マザコン)です。

「エディプス」とはギリシア神話(悲劇)の『オイディプス』のことであり、心理学的には「父親殺し」と「母親との近親相姦」の願望のことです。

幼い頃に両親が離婚した経験のあるロス・マクドナルドは、これを「失われた父親」または「父親探し」へと発展させていきます。

この『さむけ』では、「若さと老い」のテーマも大きく採り上げています。

また彼の作品の特徴として、複雑で精巧なプロットが挙げられます。
つまりは「構成の巧みさと、意外性のあるストーリー展開」とも言えます。

結末の真相に衝撃を受けた後、ページを前にめくると、伏線が至る所に張り巡らされているのに気づきます。

というか、「直喩」と「暗喩 (メタファー)」を効果的に使用することによって、真実をあからさまに記述しているのです。

ロス・マクドナルドによる複雑なプロットやミスディレクションの自然さ、ストーリー展開の巧みさによって、読者はそれが真実だとは気づかずにラストまで読み進めてしまいます。

この辺りは、ハードボイルドというより「本格ミステリー」の趣向が強いと思います。

但し、道具を使った大仰なトリックではなく、あくまでも人間の心理を利用・応用した心理主義的なものです。

そのため、読後感はミステリーというよりも、重厚な人間ドラマのように感じさせます。




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上記でギリシア悲劇(神話)との共通点を指摘しましたが、久しぶりに(何十年ぶりだ? w)本書をパラパラと見返すと、ギリシア哲学について何度も繰り返し記述しているのに気づきました。


……女子学生は青年にしきりとアキレスと亀のことを説明していた。アキレスは亀を追うのだが、ゼノンによれば決して亀に追いつくことはできない。両者のあいだの空間は、無限の時間を要することになる。そのあいだに亀はどこかへ逃げてしまう。
 青年はうなずいた。「なるほどね」
「でも、そうじゃないのよ」と女子学生は叫んだ。「空間を無限に分割できるということは単なる理論よ。現実に空間を横切る運動は、そんな理論とは関係ないのよ」


これは「ゼノンのパラドックス」として有名な「アキレスと亀」の議論です。

つまり、結論はいかにも非現実的であるにもかかわらず、結論を導く論証過程自体は正しそうに見えるところが論点となります。

実はこれは本書の謎解きの大きなヒント(手掛かり)になっているのです。

門外漢の僕が説明するので誤りもあるかと思いますが、哲学的にはゼノンのパラドックスとは「背理法」の一種みたいなもので、それは次のような形式だそうです。


AならばBである。そして、Aならば非Bである。
するとAならばBかつ非Bである。
しかし、Bかつ非Bというのは不合理である。したがって、仮定Aそのものが不合理である。

ゆえに仮定Aは成り立たない。


「仮定Aは成り立たない」というところが重要。

本書のラストの驚愕の真相に「さむけ」を覚えるのは、そこまで読み進めている中で、疑いもなく信じていた「仮定A」が、ある種のカタルシスを伴って崩壊するからです。

……いやはや、ここまでプロットが緻密で精巧だとは、驚きました(^^ゞ。




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この『さむけ』はミステリーの解説書によると、「ラストの一行の余韻は、読後も永く尾を引くことだろう」と紹介されているそうです。

ファンの間では有名な文句なので、完全なネタばれですがご紹介します(^^;。

いえいえ、大丈夫です。
僕もまずこのラストの一行を見てから、最初に戻って読み始めたのですが、ラストの驚きや感動は少しも損なわれることはなかったからです。


「それをお返しなさい」
(中略)
「もう拳銃はいけない」と、わたしは言った。

 あげるものはもうなんにもないのだよ、レティシャ。


ラストの一行はカッコ書きではないので、リュウ・アーチャーの心の中での呟きだと理解できるでしょう。

問題はそのニュアンスです。

貪欲に自分の権利を守るために、自己本位的に殺人を繰り返す真犯人に対して、「もう何を言っても無駄だ」と諦観して(あきらめて)いるのでしょうか?

それとも、ある意味不幸な家庭環境におかれた真犯人に感情移入して、共感(同情)の念を感じざるを得なかったのでしょうか?

10代の頃に読んだ僕の印象は前者だったのですが、今は後者に近いものを感じます。

紛れもない悲劇であるこの話に、共感という「人間的な温かみ」を少しでも感じたい、という希望が強くなっているのかもしれません……。


ロス・マクドナルドの特徴としてもうひとつ挙げたいのは、真相が解明された時点で「プッツリ」と物語が終ってしまう点です。

その後事件はどうなったのかという「後日談」的な部分が、潔く切り捨てられています。

事件は解決しても、誰も幸せにはなれないし、問題の根本的な部分は何も解決していない——という読後感を強めるための意図があるのでしょう。


……どのページを開けても抑制された筆致で、人が生きていくことのせつなさが、ぴしっと描いてある。登場人物はみんな暗い帽子をかぶったみたいなかんじで、それぞれに不幸への道をたどりつづける。誰も幸せにはなれない。でも、それでも人は歩きつづけるし、そうしなければならぬのだとロス・マクドナルドは叫びつづけているように見える。
「みんなカリフォルニアには四季の変化がないっていうけど、そんなことはない」とある小説の中で彼は書いている。「不注意な人間がその変化に気づかないだけなのだ」と。
 僕はロス・マクドナルドの死を心から悼む。

——『象工場のハッピーエンド』:村上春樹


この「不注意」さは、彼のどの作品かは忘れてしまいましたが、「人間を不幸にさせる原因」として指摘されています。

僕が不注意かどうかは判りませんが、人と接する時は不注意にならぬよう心がけるようにしています。

『さむけ』の中にも次のようなリュウ・アーチャーのセリフがあるのですから。


「……世界は複雑です。その世界の中で、いちばん複雑なものが人間の心です」




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このエントリーは、ある人にこの『さむけ』を薦めるつもりで書き始めました。

でも今では、人を「慰める」要素がない作品でもあるので、薦めたくない気持ちも半分あります(^^;。

でも、「超一級」の小説であることは間違いないので、この長い文章を読んでくれて興味を持ってくれた読者の皆さんに対して「大推薦」したいと思っています<(_ _)>。