ペタしてね ペタしてね


私は、この世界で行われるどんな行為も、その裏には愛があると考えています。どんな災難や破壊、混乱が起ころうと、そう信じています。

物事が起きるのには全て理由があります。


だから、苦しみにも理由があるのです。苦しみがあるから、私たちは魂に響く教訓を学べるのです。

私たちは、いつか、愛から何か教訓を学ぶはずです。

すべては私たちが選んできた道です。

でも、私たちはいつも険しい道を選び、時には葛藤したり、自分勝手になったりしたはずです。

私たちは、流れに逆らい、神の力に挑む道を選んできました。

私たちは、いつまで逆らい続けるのでしょう?一千年、あるいは一生涯でしょうか。それとも、50年、1日、一瞬でしょうか?

私たちは、自分たちに降りかかる出来事を、神の手によって引き起こされたと思えるでしょうか。

人生が“思い通りに”行かない時、私たちは、もう一度やり直します。でも、結果がついてくるのかどうかは分かりません。

しかし、こうした苦しい状況は、新しいことを学び、願ってもみなかったことを経験するためには、必要不可欠です。

つまり、予想外の結末を迎えたとしても、それは最善の結果なのです。


あらゆる出来事は最善の結末を迎えるようにできています。


最後に振り返ってみれば、私たちは常に最善の選択をしています。


最高の結果は、神様からの贈り物なのです。



ペタしてね ペタしてね

ペタしてね ペタしてね


私の友人は人生において試練の時を迎えています。
人生を今、諦めてしまうのは簡単です。

私たちには皆、どん底の時期がありますから、多くの人が難しい決断を迫られた経験を持っているはずです。

私は今でも、ほとんど全ての貯金をネズミ講の詐欺で失った時のことを覚えています。お金が戻って来ないと分かった時は、もうおしまいだと思いました。

最近あったマドフ事件を見て、嘘の約束の餌食になる人がなんと多いことかと改めて驚きました。

今はだまされた直後ですから、皆マイナス面を見てしまい、プラスの要素は見落としてしまっているでしょう。



嵐というのは、時に、ほとんど誰も予想していなかった時期にやってきます。

津波を例にしましょう。誰も津波を予測できる人はいませんから、多くの命が失われ、被害が出てしまいます。

人生はそういうものです。株価と同じで、上がったり下がったりするのです。

だまされた被害者が、過ちをキャンセルする方法はありません。コンピューターとは違いますからね。

確かに人生において、心に傷が残るでしょう。でも代わりに、他のことに感謝の気持ちを持つようになるはずです。

だって、皆さんは天災に苦しんでいるわけでもないし、ひどい事故にあったわけでもありませんよね。

悲劇を経験すると、人は生まれ変わるのです。


そして、どん底の状態をたくましく乗り越えたら、時々そのことを思い出しましょう。苦労がすべて水の泡になることはないのだと実感できるはずです。

人生では、楽に手に入るものなどありません。



でも、根気強く前向きに頑張れば、欲しいものを手に入れられます。巡り合わせを大事にしてください。

何よりも、自分のために人生を価値あるものにしましょう。


そうすれば、最後に笑うのはあなたです。



ペタしてね ペタしてね

ペタしてね ペタしてね






今よりずっと若かった20代くらいの頃、自分が他人からどう思われているか、いつも気にしていました。


大抵の人がそうだと思いますが、周りに受け入れられたいという思いがとても強かったのです。


人から好かれ、人気者になりたいと思っていました。


あと数週間で42歳になりますが、年齢を重ねて気付くようになったことがあります。


それは、他人にどう思われているか、全く気にしなくなってきたということです。




現在、私は結婚して家族もいるし、仕事にも恵まれています。


幸せを感じていますし、精神的に満たされています。


お金のことを言えば、もっと稼いで家族とより良い生活を送りたいと思っています。




自分の知り合いのことをちょっと考えてみてください。


年上の知り合いは、年下の友人より、正直で率直なはずです。


それは、年配の人は、いいところを見せる必要がないからです。


私自身“年長者”なので、人生で様々なことを経験してきたし、色々なことについて自分の意見もあります。


たとえ他人の気分を害する可能性があっても、恐れずに自分の意見を言います。




若い人たちは、思っていることを口にすると“誤解されるんじゃないか”とか“間違ったイメージを持たれるんじゃないか”と、いつも気にしているようです。


現実に目を向けてください。


全員を喜ばせることはできないのです。


なぜ、自分がどんな印象を持たれているか、気にするのでしょう?




年を取る利点のひとつが、若い人たちに説教を“したい気分に”なっても、“許される”ことです。


諭すことが神から与えられた義務だと思った時は、若い人に説教しましょう。


そのために“偏屈おじさん・偏屈じいさん”という言葉があるのです!




私は、そこまで年寄りでも偏屈でもありません。


大抵の場合はね。


年下の人たちともうまく付き合えますが、考え方にギャップがあるのは感じます。


でも実は、私はわざと議論を起こすのが好きで、誰かが反論すると分かっていることをあえて口にします。


ここでも時々、議論を起こすような投稿をするかもしれませんが、どうか偏屈なだけだとは思わないでください。


人生のささやかな楽しみのひとつなんです!



ペタしてね ペタしてね