『哀れなるものたち』 (2023) ヨルゴス・ランティモス監督 | FLICKS FREAK

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いやぁ、映画って本当にいいもんですね~

 

ヨーロッパの監督の作品を観ると、時に、地続きで征服したりされたりという歴史を繰り返してきた民族と、我々島国で生きてきた民族との感覚の違いを感じることがある。一言で言えば「冷徹なまでの個人主義」となろうか。もう少し分かりやすく言えば、「言わなくても分かるはず」という距離感と「言わなければ分からない」という距離感の差。その感覚はミヒャエル・ハネケ(オーストリア)やラース・フォン・トリアー(デンマーク)の作品を観ていて感じるものである。「和をもって貴しとなす」の民族に属する一人としては、「この監督は人間嫌いなんじゃないか」と思ってしまう。そしてギリシャのヨルゴス・ランティモスもその一人。ただ、ハネケやトリアーが人間の心に巣食う暴力性をモチーフとすることが多いことに対し、ランティモスの作風の特徴は不条理な設定から来る狂気と紙一重の「おかしさ」だろう。

 

この作品は、ランティモスにとって初めて原作のある作品。原作はイギリス作家アラスター・グレイが1992年に発表した同名小説。原作があることで、これまでのランティモス作品の中では一番分かりやすい作品。その分、若干ランティモスらしさに足りない印象がある作品。

 

女性の成長を描く物語。女性が様々な因習から自己を解放するというテーマはいかにも今風のもの。フェミニズム映画として優れた作品の『バービー』が、この作品と並んで今年のアカデミー作品賞にノミネートされたのも時代の流れというべきだろう。ハリウッドの俳優の中ではリベラル色の強いエマ・ストーンがプロデューサーを兼任していることからも、そうした意識が高いことは想像できた。

 

成熟した女性に胎児の脳を移植されて生み出されたベラ。この作品において彼女の放つイメージは強烈なものだが、脇役的登場人物の女性たちも皆魅力にあふれていた。洋上の客船で乗り合わせる老婦人マーサや娼館の女亭主マダム・スワイニ―。それに比して、男性たちが実に愚かで、弱い人間にもかかわらず威丈高だったりとあまりに情けない。同性の立場からすれば苦笑いするしかないが、日々性差にすり潰されている女性にとっては胸がすくことだろう。

 

女性が社会や男性に従属する存在ではなく、本能のままに自らを開花させていく中で、性的快楽を獲得する展開に重きが置かれていた。現実社会では、女性が性的に成長する以前に「女性は慎ましくあれ」というモラルを教え込まれるため、性的快楽を求めることはタブー視されがち。ピュアなベラはそうした価値観にとらわれず、マスターベーションで快楽を知り、更に男性との関係を開拓するという展開。マスターベーションのくだりは納得だったが、男性との肉体交渉の中で快楽を得る「実験」として娼婦になるという設定はいかがなものだろうか。セックスが肉体的結合だけではないことから、体を売ることでも快楽を得られるということには違和感があった。

 

また、船上でベラはマーサとその連れのハリーとの会話で哲学的な思索をめぐらし、本を読むことで精神的に成長を遂げる。その結果、貧富の格差という現実の厳しさを知って狼狽するのだが、そのくだりが少々性急だった。

 

ランティモス作品としては不条理感の少ないストーリーだが、エンディングはさすがランティモスらしいもの。子孫を残すためパートナーを持つことが義務付けられた近未来に、自分のパートナーを見つけられなかった場合には、動物に姿を変えられてしまうというストーリーの『ロブスター』 (2015)を思い出させるエンディング。

 

本作はアカデミー賞11部門にノミネートされているが、当確は衣装デザイン賞だろう。ヴィクトリア調のドレスがミニスカートというのは奇抜ギリギリの大胆なデザインで目を奪われた。ベラの着る一連のドレス(ウェディングドレス含む)は必見。ヴィジュアル的なアート性の高さは、これまでのランティモス作品にはなかったもの。

 

ランティモス作品では、近2作の『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクレッド・ディア』(2017)、『女王陛下のお気に入り』 (2018)よりはよほどよかった。ランティモス作品のベスト『ロブスター』に次ぐ出来と言っていいだろう。

 

★★★★★★ (6/10)

 

『哀れなるものたち』予告編