ちょっと間があいてしまいましたが、シリーズパート4の続きです。
(4/12ディズニーについて新たな事象がありましたので追記し、幾分か記事の順序を整理しました。)
浅学の身であまりに大きなテーマを選んでしまったな~と思いつつも、とにかく続けて参りたいと思います。
前回の記事の論点をもう少し敷衍していきたいと思います。
ノアの時代の特徴
人の子が来るのはノアの日のようである、というイエス様の言葉から、
実のところ携挙が起こる日というのは、(いわゆる時代分類としての「患難期」に入るか入らないかに関係なく)今現在より相当厳しい状況なのではないか?と私は推測していますが、
これについてもう少し突っ込んで検討していきたいと思います。
前回見た「ノアの日」の特徴としては、地に暴虐があふれ、人の心に思い図ることが悪ばかりであり、全ての肉なるものが道を乱していた、といったものがありますが、
もうひとつ特筆すべきものがあります。創世記六章を最初から見てみましょう。
「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
そこで、主は、『わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう』と仰せられた。
神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」
この箇所は読者を悩ませることで知られる箇所で、そもそも「神の子ら」とは何か、というところから議論がかまびすしいものがあります。
一説には、最初の人アダムの子達のうち、敬虔なセツの子孫らと、神を忘れた別の系統の子達が混交したことを指している、とも言われていますが、
はっきりそのものズバリを言ってしまうと、
これは「御使い」、それもサタンの側について堕落した御使いが、人間の女性たちに子を産ませた、という内容と思われます。
断言しますが、それ以外の解釈をするのは論理的にかなり厳しいと私は考えています。
説明しましょう。
まず、「神の子ら」(ヘブライ語でベネイエロヒム)は、旧約の別の箇所ではヨブ記1章6節にしか出てきません。
ヨブ記において、この「神の子ら」はあきらかに御使いのことであり(その中にサタンもいた、ということですから、善い御使いだけを指していたわけではなかったのは確かでしょう)
創世記6章の神の子らも御使いと考えるのが妥当です。
もうひとつの根拠。ユダの手紙1章14-15節に一部引用されているエノク書(外典ではありますが)には、
ヘルモン山(イエス様が弟子たち三人の前で変貌しモーセとエリヤと会談したとされる場所)に降り立った御使いたちが人間の女性たちと交わったことが書かれています。
さらにもうひとつ。
旧約聖書をギリシャ語に翻訳した70人訳では、ネフェリムが「タイタン(巨人)」と訳出されています。
ギリシャ神話の文脈では、巨人たちは「神々」が地上に降り立って人間の女性たちと交わった結果産まれてきたものです。
ユダヤ教的に考えたら、ギリシャの神々は、天地を創造したヤハウェに対する関係性では「偽の神」です。
いやもっと言えば「悪霊」にほかなりません。(第一コリント10章20節)
だから、70人訳にこのような言葉が用いられているということ、
そしてユダヤ教徒から見てギリシャの神々がどう見られていたかを勘案すれば、
冒頭の「神の子ら」が堕落した御使い、言い換えれば悪霊である、ということが少なくともその当時信じられていた、という線は非常に堅いと私は思います。
(ちなみにこの70人訳の解釈は私のアイデアでもなんでもなくユダヤ人クリスチャンで神学者のArnolod Fructenbaum博士の唱える説です。)
悪霊の活動
さて、「そんなことあるわけないじゃん、ププッばっかじゃないの」というリベラルさんたちの嘲笑が聞こえてきそうですが、まあそれは放っておいて、
悪霊の存在とその活動ということについて少し考えてみたいと思います。
まず言っておきますが、悪霊は実在します。
これはオカルト的な秘密でもなんでもないし、新約聖書には悪霊が何度も出てくるから聖書を字義通り信じる立場からは当然です。
と言ってしまえばそれまでなのですが、
それだけではなく、わたし自身は直接の体験はないものの、自教会の主任牧師や他の信徒さんの実際の体験談で確認しているものです。
私の教会の主任牧師などは、米国から日本に宣教師として来た初期の頃に、日本人牧師と協同して、あるメンタルを病んでいた人の世話をしていたときに、
外国語を全く話せないはずのその人が突然英語で激しく罵ってきたのだそうです。
最終的にはその方は癒されたという話なのですが、主任牧師はその他にもいくつもそういう体験をしており、その他にベテラン信徒さんからもその種の話を聞きました。
ともあれ、悪霊は存在しており、その活動には目的があります。
今の時代においては、「クリスチャンを妨害する」ことを企図しているのはもちろんなのですが、
ノアの時代においては他にもっと明確な目的がありました。
それは、「救い主の生誕を阻止する」ということでした。
実のところ、救い主の生誕は創世記3章15節で最初に預言されており、
「わたしは、おまえと女との間く、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
蛇(サタン)への報いとして、「女の子孫(単数)」が彼の頭を砕く、と宣告されたのです。
これは、おそらくサタンには甚だ恐怖であったことは想像にかたくありません。だから、御使い(堕落した御使い=悪霊)と人間を混交させ、女の子孫から救い主が産まれることを阻止しようとしたと考えられます。
悪霊は単に人間を苦しめることを企図しているのみならず、そのときそのときで特定の目的を持って活動することがあるわけです。
さて、これらをもとに、「ノアの日のようになる」と言われている終わりの時代の有様はどのようであるかを考えてみると、
なんらかの活動で悪霊の働きが活発化することはかなり高い確率で言えるのではないか、と思います。
そもそも、「患難期」に入ったあとにおいては、悪霊の活動は「フルスイング」状態になります。
億単位の悪霊が人間社会を襲ったり、(黙9:13)
「汚れた霊」が指導者たちを惑わしたり、(黙16:12)
また「反キリスト」自身も、ちょうどイエス様が聖霊の力によってマリヤの胎内に宿ったのと同様、サタンを父として人間の女性から生まれてくるのではないか、という予測が多くのクリスチャンたちの間でなされています。
何より、「患難期」に入るのを待つまでもなく、終わりの時代には神が「惑わす力(霊)」を送り込まれる、ということも聖書には明らかに書かれています。(IIテサロニケ2:11)
ですから、「ノアの日のような」時代に向かっていくにつれて、
霊的な原因以外、どう考えても説明の難しいような現象の数々がこれから増えていくのではないか、と予想できる、と私は考えます。
「霊的」な力としか言えないようなものが社会情勢の動きの中に感じられる、という内容は過去の投稿で取り上げたことがあります。↓
「ノアの日」のような時代が到来するとしたら、こういった変動がもっとケタ違い、スケールの大きなことになっていく、と予想されます。
それは人々の考え方、行動の大変化かも知れませんし、社会制度の転換かも知れません。
あるいは、その他なんらかの不思議な「現象」が起きるかもしれません。
奥歯にものが挟まったような言い方で申し訳ないですが、今はまだこれくらいしか書けません。
読んでくださっている皆さんには、私があまり詳細を書かないのでもどかしいと感じられる方もいるかもしれません。いろいろと情報は入っているのですが、なにぶん読者さんをミスリードしないよう、私としては、聖書に根拠があり、かつ確実に裏のとれる事柄を中心にしたいので、この点はご容赦をお願い致します。
ソドムとゴモラの「精神」
同時に、その日は「ロトの日のよう」になる、というイエス様の預言についても考えていきたいと思います。
ソドムとゴモラのエピソードはあまりに有名なので、細かい点は割愛しますが、
この聖書箇所は、保守派クリスチャンの間では単純に「同性愛をはじめとする性的逸脱が横行した町を神が裁かれた」という文脈としてとらえられることが多いです。
その解釈は無論合っているのですが(新約聖書にも裏付けがあります。→ユダ1:7)
今回の投稿は、「ロトの日」のような時代にはクリスチャンを取り巻く状況はどのようになっているか、という視点がメインですので、
これとはやや違う視点から聖書箇所を見ていきたいと思います。
創世記19:5-9
「彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。 そしてロトに向かって叫んで言った。『今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。』ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。 そして言った。『兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。』 しかし彼らは言った。『引っ込んでいろ。』そしてまた言った。『こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。』彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。」
「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください」
「こいつ.....さばきつかさのようにふるまっている」
この会話に私は着目しました。
「さばきつかさ」?
この言葉が引っ掛かります。
考えてみれば、ロトは町の人々がどこかでハッテン(男性同士乱交すること)行為に及んでいるところにわざわざ自分のほうから出向いていって「これこれキミたち、悪いことはやめなさい」と説教したわけではありません。
彼は、自分の家に泊めた客人たちを集団強姦しようと押し寄せてきた町の男たちに「悪いことはしないでください」と頼んだだけです。
それに対するこの彼らの応答。彼らはただ単にDQNだから見境もなくこのように答えたのでしょうか?
ロトの頼みは、「私の客人たちに危害を加えないでください」これだけで、私たち現代人の目から見たら極めてささやかなものです。しかも自分の娘たちまで差し出そうと申し出るほどの低姿勢。
(娘たちにはたまったものではありませんが、もしかするとロトは男たちが女性に興味がないのを知っていて、ただ彼らの顔を立てるためだけにそう言ったのかも知れません。)
これに対して「逆ギレ」する、このメンタリティはただのDQNではなくって、
もっと根本的な「認知の歪み」みたいなものの存在を背景に感じます。
このようなメンタリティ、「原始的で野蛮な社会だったから」といった簡単な説明も思いつきそうですが、
実は、これと根底で似たような考え方は、現代社会にも形を変えて存在する、と私は思います。
私はこれを仮に「ソドムとゴモラの『精神』」と呼ぶことにしますが、
性的欲望の前には、「他人のプライバシー」とかそういう概念は吹っ飛び、
また少しでも自分を批判するようなニュアンスの言説は全て遮断しようとする、
そんな『精神』です。
米国: 学校がヤバイ
今米国の多くの地域では、「性教育」(それにプラスして「反差別」教育)の名のもと、
子供たちに男女の性行為は無論、同性愛性行為についての説明をし、場合によってはポルノに近いような内容の教材が授業で使用されています。
(実際にポルノを授業で教える方針をとろうとしている州もあるらしいです。)
無論、こういった教育に反対する保護者たちも大勢おり、
するとまた今度は司法省がそういった保守派保護者たちを危険分子として監視対象にするなど、
きわめてカオティックな状況があります。
しかし、この学校教育をめぐる保守派と進歩派の討論をSNS上で観察していて気付いたことがあります。
いわゆるこの「性教育」(←これは日本では想像もつかないくらいグラフィックで生々しく、なおかつ同性愛行為などを含むものであることは念頭に入れる必要があります)
に賛同的で、進歩的な論客は、
「子供の教育はプロに任せるべき。親のしゃしゃり出るところではない」
といった感じで、保護者の懸念など歯牙にもかけないような論調を張ることが多いです。
同時に一部の学校では「親に内緒で子供にジェンダー移行」させる方針をとっているところがあり、これもまた問題になっています。
要するに、「子の(性)教育はその家族のプライベートな事柄」という概念は完全に吹っ飛んでしまいつつあるということです。
これらの運動を駆動している何者かは、
まるで「お前の子供たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ」と言っているかのようです。
「悪魔」の復権
さて、「ノアの日」「ロトの日」の特徴を踏まえた上で、イエスの預言に沿って今後の展開に思索をめぐらしていたところで、私は非常に示唆的・象徴的な写真を目にしました。
ケンタッキー州で保守派の運動により「反トランス」的な法律(児童への性転換「治療」を禁ずる法律)が提出されたことに反発し、州議会の建物の近くで抗議した群衆の中に、
いわゆる「悪魔」の扮装をした人物がいたというのです。
(上) この方はKen Tagious氏といって、ジェンダークイアー尼僧を名乗り、Sisters of Perpetual Indulgenceというクイア団体の一員なのだとか。
とはいえ、こゆうのは実のところ前代未聞ということでもないです。
以前このブログでとりあげたことのある事象で、米国および英国でドラアグクイーンが子供に読み聞かせをする「ドラアグクイーンストーリーアワー」なるイベントが議論を呼びましたが、その読み聞かせを担当するドラアグクイーンの中にもモロ悪魔という仮装をしている人がいたものです。
(上)幼児に読み聞かせをする米国カリフォルニアのドラアグクイーン。
また、ちょっとさかのぼって2018年のことですが、筆者は、台湾において同性婚を推進するデモに「悪魔の仮装をしている人が参加」していたという記事を見ました。
(上)(「角をつけ悪魔に扮(ふん)した人々がキリスト教の牧師や支援者と共に練り歩いた」そうです。....)
ともあれ米国に戻ります。
もともと毎年ハロウィンやってる国だし、まあ悪ノリでやってんのかなと好意的に解釈できなくはないかも知れません。
(あのような「角のはえた恐ろしい悪魔」、いわゆる「バフォメット」に代表されるような悪魔の姿というのは、実のところ聖書にそういう描写が書いてあるわけではないのですがね。)
しかしそもそもの話をしてしまうと、米国には「サタニスト」といって、サタンを崇拝対象とする宗教実践者たちが一定数存在します。
この「サタニスト」たちは教会さながらに集会を行ったり、たまには公にデモをしたりもしているようです。
とはいえ、筆者の個人的な印象では、昔はそのような人たちは社会から注目を受けることもない周縁的な存在だったと思います。
たとえ彼らが世間の語り草になっても「恐ろしい」「イカれてる」といった評価を受けるのがせいぜいだったと。
ところが、最近では米国における「サタン・悪魔」のとらえかたが次第に変わってきているような気がするのです。
昨年のことですが、ディズニーが「サタンの子」を題材としたアニメシリーズを企画したことが波紋を呼びました。
サタンを父親とし、人間を母親とする少女の日常を描くコメディという触れ込みでしたが、反対の声が大きかったため結局お流れになったようです。
(4/12追記です。ディズニーは、ドイツ限定のプログラムではあるものの、「悪魔と性交して妊娠するティーンエイジャー」の話を企画しているそうです。最近ブログ記事書こうとするたびに、投稿より先に書いたことを上回るような事象がポンポン起きるんですわ......)
一昔前ならば考えられなかったことですが、
今現在はことほどさように、ある種の人たちの間での「サタン・悪魔」への拒否反応が薄らいでいる、ということでしょう。
ただ、これらの現象を見ても、読者の中には「彼らはそんなに真剣にサタンを礼拝しているのではなく、ただのおふざけでは?」とか、「たかがコスプレとかアニメぐらいで大げさな」と思う方もいるかも知れません。
(それに、「それを言ったら日本にだって『デーモン小暮』氏等悪魔をネタにしている芸能人もいるし、それと同じじゃ?」といった意見もあるかもですね。)
しかしです。
聖書などほとんど読んだこともない多くの日本人一般市民と違い、
西欧では多くの人が聖書の中ではサタンが創世記からの神の(そして人類の)宿敵とされていることを理解しているということに加え、
こういったサタン・悪魔のイメージの引用が多くの場合「性的自由の追求」v.s.「旧来の性的規範」の衝突という文脈で行われていることに着目する必要がある、と筆者は考えます。
(上)誰がデザインしたのか知らないが、昨今は「ゲイであれ、サタン万歳」とプリントされたパーカーが売られている。
「となりのサタニスト」
以上を背景として、ちょっと私の個人的な体験談をさせていただきます。
私の妻は学生時代の特殊なバックグラウンドから、米国人クリスチャンの学友を複数持っているのですが、
いまやそのうちの多くがいわゆる「左派リベラル」になってしまった、と嘆いています。
なので、せっかく旧交をあたためる機会があっても、うっかり政治の話題を持ち出そうものなら衝突になりかねない、と。
そしてあるとき、その旧友たちのSNS投稿を妻が見せてくれたことがあります。
確かに、トランプ氏への罵倒、LGBTアジェンダに同意しない人たちへの悪口、保守派への容赦ない批判、そういったものが目立ちました。
そういったコメント群の中で、あるものが私に強烈な印象を与えました。
今となってはスクショもないですし、断片的にしか記憶していません。また、妻の旧友の一人によるものなのか、そのアカウントに他から寄せられたコメントなのかもいまとなっては定かではないのですが、
それは、中絶の権利をめぐる話題についてのもので、そのコメ主は保守派(中絶反対派)を批判する過程で、
「私のサタニストの友人が.....」という表現をしていたのです。
いま思い返すと、サタニズムは明確に中絶推進派ですから、
そのコメントをした人物は、中絶に反対する保守派を論難しつつ、サタニストについては(このトピックに関する政治的親和性もあいまって)決して脅威でもなければ嫌悪すべき対象でもない、いや、むしろ「友人」である、
とみなしていたことがよくわかります。
終わりの日の「予告編」
これはいわゆる母数N=1の体験談に過ぎませんし、
おなじような現象が今現在果たしてどれくらいの範囲で見られるのか、断定的なことはまだ言えません。
しかしながら、上述した州議会での抗議者の群衆の中に見られた扮装。
(また、くしくも台湾の同性婚デモでは、寄りによって「牧師」が悪魔の仮装をした参加者と一緒になって「性的少数者の権利」を訴えていました!)
さらに、今現在LGBTアジェンダの強力な推進部隊となっている「ドラアグクイーン」の中にみられる扮装。
(「バフォメット」は両性具有の存在だと言い伝えられていますが、これも興味深いことです。)
そうすると、です。
いや、飛躍しすぎとの謗りを覚悟して、あえて言いましょう。
いま私たちが目にしつつあるのは、
ノアの日にあったような悪魔・悪霊の存在感の高まりと、
ロトの日にあったような性的逸脱とそれの全面承認への要求、
これらが一体となって発現しつつあるありさまではないでしょうか?
そして、ある種の人たちの間で悪魔やサタンへの拒否感・嫌悪感が薄れ、消え去っていくとともに、
その人たちの目には、性的逸脱や性別越境に対する反対の声を上げる人々はますます「偏狭、差別者、ヘイター」と映っていく。
「こいつ、さばきつかさのように振る舞っている」
というわけです。
しかしながら、筆者個人としてはこの現象は驚き怪しむほどのことではないかも知れない、と考えています。
こういった人たちの転倒した世界観の中では、
なんであれ人の「自由」を制限するものは悪です。
(賢明なクリスチャン読者の方はここでいう「自由」は本当の自由ではない、と気づいておられるかも知れませんが、いまあえて結論を早く提示するためにこう表現しています。)
この世界観では、人の自由を制限するものは、たとえ神であれ何であれ、攻撃され、論破され、沈黙させられなければなりません。
もし神が人間に対して何かを禁じたなら、その禁じられた行為はむしろ必ず実行されなければならない。
なんとなれば、それこそがサタンのメンタリティなのです。(創世記3:5)、
そして人が「神のようになり、善悪を知るようになる」というサタンの入れ知恵を発端とするアジェンダは、
キリスト教衰退の始まりと同時に勃興してきた近代哲学がいまに至るまで追求してきたものでもあります。
このブログで何度も指摘してきたように、
終わりの日、イエスの再臨前にはサタンのひとり子である「反キリスト」が出現し支配者となるとともに、多くの人たちがサタンや反キリストを拝むようになります(黙示録13)。
しかし、それは何もないところから突然始まる現象ではない、と私は考えます。
悪魔を積極的に崇拝していたり、創作作品に肯定的な存在として取り入れ、あるいは悪魔の扮装で政治活動をしている人たちの心中はもちろん一様ではないでしょう。
本気で礼拝の対象としているひともいれば、ただ単に「なんとなくクールじゃん?」と思ってるだけという場合もあるかもしれません。
しかし、私の個人的な見立てでは、サタン・悪魔を嫌悪するよりもはるかに強い熱意でもって
「人の(性的)自由を制限しようとする偏狭者」(多くの場合保守派クリスチャンです)
を憎悪する、という人たちの数は、いまや決してごく少数というわけではない、ということは確かと思われます。
もしだれかが、サタニストを「友」と呼び、保守的クリスチャンを敵視するならば、
あるいはもしだれかが「性的少数者の権利のため」とか言って、キリスト教牧師の職にありながら悪魔の扮装をした人物と肩を並べてパレードに参加することを厭わないならば、
そのようなひとたちは、もしサタンのひとり子が世に現れたからといって嘆いたり驚いたりするでしょうか。
それは、預言を信じるクリスチャンがそれを予期していたがために驚かない、という意味とはまったく違います。
人間の「自由(本当の意味では「放埒」)」を推進し、
神が与えたもうた(本来なら健全な)「制限」を非難、排撃することで最大の「幸福」を約束する、
もしもそんな人物が現れたら、
彼らはむしろ喜んでついていくのではないでしょうか。
まとめ
私は、自らも患難前携挙説をとりつつも、同じ患難前携挙を信じる方に勧めたいことがあります。
それは、もしも「世の中に大きな苦難が起きる前に教会は携挙され、そのあと反キリストが突然現れる」といった未来予想図を描いておられるなら、
それは今のうち修正しておいた方が良い、ということです。
筆者の観察するところ、西欧、特に米国における社会の「捻れ」みたいなものは、想像を絶するスピードでエスカレートしています。
また前回投稿で取り上げたナッシュビルの教会付属学校での乱射事件では子供たちを含むクリスチャンが犠牲となりましたが、
コロラド州でも同様の事件を起こそうとしたMtFトランスジェンダーが未遂で逮捕されています。
(学校がターゲットとありますが、追加的な標的として教会の襲撃も念頭においていたと報じられています。)
加えて、サタン・悪魔を忌避せず、むしろ「友」であるかのようにみなすような社会風潮の高まりは、聖書につくクリスチャンへの敵視とまるで比例しているかのようです。
もちろん、前回の投稿で指摘したように、
トランスジェンダリズムをはじめとするこういった勢力は、まだ社会を完全に掌握したわけではなく、まだ人口の一部分にとどまっており、政治的にも強いバックラッシュに遭っているのが現状です。
しかし、このようにして私たちの眼前に立ち上がりつつある光景が来るべき「ノアの日」「ロトの日」の「予告編」だとしたらどうでしょうか?
そして、もしそうだとしたら、その「本編」たる携挙前夜は、このような現象が(おそらくは現状をさらに凌ぐような強烈さをもって)社会全体を覆い尽くす可能性が高いと私は考えるのです。
パート6に続きます。