こんにちは。お久しぶりです~
なんと前回の投稿から4か月も経ってしまいました.....!
仕事が立て込んでくると、ピタっと筆が止まってしまうのがなんとも困りものです。
(シリーズの予定だったのにね..(^^;)>)
やっと時間ができてきたので、どうにか続きを書いていきたいと思います!
さて前回の投稿では、
ゴグ・マゴグ(≒ロシア)がイスラエルを攻撃する「エゼキエル戦争」は、聖書が文字通り成就するとしたら現代的戦争ではありえないため、大きな社会変動(経済崩壊, etc.)が起こらない限り近々には勃発しないであろうという見立てをご紹介しました。
また、「エゼキエル戦争」といわゆる「アルマゲドン」と言われる「最終戦争」の間にはおそらくどんなに少なく見積もっても数年間の開きがあると考えられます。
なので、前回の投稿だけを取り上げると、
「ダイジョブダイジョブ、世の終わりなんてま~だまだ先っ!」
という楽観的な内容に見えてしまったかも知れません。
しかし、それは私ブログ主の本意ではありません。
エゼキエル戦争や最終戦争とは別に、将来の「反キリスト」の到来の下準備ともいうべき社会変動は今確実に起こっています。
それは、誰か特定の人物を指して「あいつが反キリストだ!」とかいったレベルのことを言いたいわけではなく、
聖書に書かれている「反キリストの性質・特徴」から、そのような性質・特徴をもつ社会体制に向けた、ゆっくりではあるが確実な変動が起きている、という意味です。
それを以下に例示してみたいと思います。
不法の人
第二テサロニケ2:8にこうあります。
「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。」
この「不法の人」の「不法」は反キリストを形容する鍵となる表現の一つで、ギリシャ語でエイノモス(anomos)、つまりnomos(law)にaという接頭辞がついた複合語です。
英語では、この「不法の人」はよくMan of Lawlessnessなどと言われます。
ちなみにNomosは70人訳旧約聖書では「トーラー(律法)」を訳するギリシャ語としても使われました。
(面白いことに、ダニエル7:25の「彼は時と法則を変えようとする」の「法則」も、70人訳では同じ系統のギリシャ語です。)
ですから、不法というのは、一般的なイメージであるアウトローや不良といったこととはちょっとニュアンスが違い、
その深い意味としては、「神がこの世に与えた法(則)を根底から破壊しようとする志向を持つ」と解釈できるわけですね。
神に対抗し、自ら神のようなものになりたがる、という「反キリスト」の性質から考えても、このように解釈するのが自然と考えられます。
もっとも、神が与えた法則というものを「律法」ととらえた場合は、
律法は今日においては実行されていない、あるいはしえないものも多くあり、
また新約の異邦人信徒に対しては明確に適用されないと使徒たちの会議で決定されたものも存在します。
しかし、聖書をちゃんと読んでいる方はご存じでしょうが、新約になっていきなり律法が全部なくなり「なんでもオッケー」になったわけではなく、
特にパウロの書簡では、旧約とは形式が違っているものの、結果的には十戒やその他一部のモーセ律法と共通し首尾一貫した戒めが置かれています。
ちょっと話が逸れましたが、いずれにせよこの「法」というものをどう解釈するかにはいささか幅があるものの、
今現在の社会情勢において、人類共通の「法」や、神が定めた法則を根底から破壊しようとする動きは確実に高まっている、という観測は決して行き過ぎた煽りとは言えないと思います。
例示してみます。
「盗むなかれ」はもう古い?
ここ1,2年ほどでしょうか、 Smash & Grab という言葉を米国発のSNS投稿でよく聞くようになりました。
要するに、店のショーケースやなんかを叩き割って中の商品をつかんで逃げ去る窃盗行為のことです。
米国の加州といったリベラル州では、「万引き」に関する処罰を軽減してきており、ある金額(950ドル)以下の場合は「軽罪」となったり、そもそも訴追さえしないといった、我々日本人には理解しがたい慣行を行っているところもあります。
その結果、窃盗犯罪が激増しており(当たり前ですが....)個人で、あるいは下手すると集団で、白昼堂々と商店の棚に群がり商品を強奪する行為が監視カメラで撮影され、それがSNSで流れるようになりました。
「盗むなかれ」はどんな国の法典にも含まれる基本中の基本なのだと思いますが、それを「非犯罪化」するのはどういう了見なのか、私もよく理解はできません。
しかし、「盗み」を非犯罪化するに際してかの地の指導者たちがどんなリクツをつけるにせよ、
それは本来人間文明が持っていた秩序を根底から蝕み、
まあ「北斗の拳」の世界とまでは言わないまでも、なにか極めて荒んだ、今まで見られなかったような新たな「社会のカタチ」を齎すと考えていいでしょう。
そして無論これは来るべき社会の「先ぶれ」ぐらいのものに過ぎないとは思いますが。
〇ろしてOK
最近拙ブログでも取り上げ、また米国最高裁判所の最近の方針についても話題になった「妊娠中絶」ですが、
この点については最近当ブログで書いたとおり
「胎児が人間と認められない時点では中絶可」
という甚だ脆弱な前提が推進派のよってたつ論拠となっており、
これにより、実際には、「いつから人間と認められるか統一見解は存在しない」→(ので、別に、いつでも、なんなら生まれる寸前に中絶したっていい)という過激化が導き出されていることは指摘しました。
そして、既にお知らせしたとおり、
「産まれても暫くの間、もし放置により死なせても刑事訴追不可」
という法案が米国のある州で提案され(そして幸いなことに反対派の運動により阻止され)ました。
また、新生児を中絶することを可能にするべきという想像を絶する提言をなす論文も既に出版されています。
もともと、「胎児は人間と認められないから中絶可」という議論が非常に脆弱なのは勿論、
結局のところこの運動は過激化により一部活動家が「新生児も中絶の対象」と唱えるようになっていくのは必定のようです。
しかしです。「殺してはならない」これは、「盗んではならない」と並び立つ、人間文明の基本となる法則ですし、
なによりも、これはモーセの律法どころかそれをはるかに遡って「ノアと神の契約」(創世記9:5)に定められているものです。
(これごく個人的な見解ですが、私は「死刑廃止」もまたこのノア契約に照らすと神への反抗と考えます。神は「人の血には値としてその血を要求する」と聖書に述べられているからです。過失の場合や誤認捜査など考慮すべき事項はあるにせよ、例えば故意に殺人してその証拠が明白な場合などに「更生」を理由にして極刑を避けるのには問題を感じます。)
かように、この社会変動は、あたかも聖書をどんどん遡る形で、神の戒めを侮蔑し、投げ捨て、破棄しようとしているかのようです。
そして、それはもちろんそこにとどまりません。
結婚、男女の別から人と動物の境までが侵される
このブログで何度も何度も警告してきたLGBT(Q.....以下略)運動の脅威。
まずこの運動では、結婚の定義を書き換え、それにまつわる社会の価値観の大転換を志します。
『同性婚からまっすぐに続く道に見えるもの: 「価値観の戦争」』 同性婚賛成の「感動演説」最近巷では、ニュージーランドのある議員が国会で同性婚の法制化に向けて行った演説が話題を呼んでいるようです。同性婚賛成派の方々からは素晴… ameblo.jp |
結婚という制度は人類文明始まって以来のもので、聖書的には既に天地創造の時点で神によって定められました。(創世記2:24)
聖書に照らせば、結婚というものはクリスチャン間であってもノンクリスチャン間であっても神が定めた制度に則って行っていると考えられます。
そして次に、かかる運動が男女の別の定義を攻撃していることは読者の皆さんご承知の通りです。
神はご自身のすがたに似せて「男と女に」人間を造られた、と創世記1:27にありますが、
それに真向から戦いを挑むかのように、「男が女になれる」、「女が男になれる」、果ては「男でも女でもない」?などと嘯く人たちがとみに増えています。
しかし上述のとおり、反抗はそこにとどまりません。
創世記1:25に神は「種類にしたがって」野の獣を創造されたとあります。
すると当然のことながら、人と獣の間には厳然とした境目が存在しているはずですが、
LGBTQのうちには、人間が動物に扮して「プレイ」をするとか、
中には本当に動物と行為に及ぼうとする人たちも、そのコミュニティの中に包摂されていきそうな雲行きです。
(控えめに言ったとしても、LGBTQは『●●を排除する』姿勢を持たず、不可逆的に包括的になっていく傾向があるため、そのような指向を持っている人がコミュニティ内で指弾され忌避されているという話はついぞ聞きません。)
レビ記18章が言外に意味するところ
私は以前から、同性愛行為が罪とされる根拠としてよく挙げられるレビ記18章の記述に不思議なものを感じてきました。
すなわち、6節から23節にかけて、同性愛行為のみならず、近親相姦、不倫、子を偶像に捧げること、獣姦などが厳しい語調で戒められているのですが、
それだけではなく24節-25節で、
「わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、」
「このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである」
とあるからです。
これはよくよく考えると非常に不思議なことです。
私は、レビ記にこの記述があるゆえに、よくゲイ神学者の一部が主張していた「ここに書かれた戒めは儀式的にイスラエルの民を他と区別するためのものにすぎない」といった議論に強い疑問を抱いてきました。
なぜなら、異邦人であるカナンの住人達は、イスラエルの民と違って律法も与えられなければ、神との「契約」も結んでいなかったからです。
全般的に、聖書の神は事前に警告もせずに人を罰するようなお方ではありません。(ちなみに、イスラエルの民は、律法をもとにした契約を神と結び(出エジプト~申命記参照)、その契約を破った(神を捨て偶像に走った)ので、契約に書かれていたとおりに罰を受けました。)
しかし、このレビ記18章で述べられているのは、律法のリの字も知らないはずの異邦人でも、ここで書かれているようなことを行えば、事実上神の罰は免れないということです。
考えてみれば、これ凄く恐ろしいことではないでしょうか?
モーセ律法は、イスラエルの民にのみ与えられているものであって、イスラエルの民の間に住んでいる者を除けば、異邦人に遵守義務はありません。
しかし、レビ記18章の戒めは、そのような適用の制限・範囲を超えており、
これらのことを行ったらイスラエルの民は無論のこと、たとえ律法に無知な異邦人であっても罰を受け「その地から吐き出される」、それほどの悪だということなのです。
支配者の務め
現代人の中に、少しづつではあっても確実にこれらの行為が広がっていることにより、
今後神の御怒りは積みあがっていき、世界は一挙に終末に突入するのでしょうか?
それは、今断言することはできません。世の中につきものの作用と反作用の拮抗のごとく、これに反対する声も各所で上がってきています。
ただ、上述したように「反キリスト」その人が「不法の人」であり、その「反キリスト」が(一時的に)全世界の支配者となることが預言されている以上(黙13:7, etc.)、
神の定めたものごとを覆す「不法」の広がりは、それに先立って進行し、いずれは「反キリスト」を世界指導者として迎える土壌が整っていくものと思われます。
そのバロメーターとして、私がもう一つ留意しておきたいものがあります。
それは第二テサロニケの記述です。同書簡の以下の節によるならば、「不法の人」である反キリストの登場を「引き止める」ものが存在する、といいます。
同時に、「不法の秘密」は(反キリスト登場前に)すでに働いているものの、それを引き止めるものもまた存在しているというのです。
2:5-7
私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。 あなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。 不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
Arnold Fruchtenbaum博士によるならば、この「不法の秘密」を引き止めるものとは、すなわち「ノア契約」(創世記9:1-17)によって「悪を抑制する任務を負った」人間の政府機構だということです。
博士はまたここでローマ書13章1-4節におけるパウロの議論も引用しています。人間政府は基本的には悪を抑制するために存在しているというのは聖書的真理の一つというわけですね。
(もっともここでパウロは、一般的な話として「神がデザインした支配者の機能」的なことをローマ書の該当箇所で語り、権威にはちゃんと従うことを勧めているものの、だからといって常に支配者に盲従していたわけではありません。もし異議があれば、裁判手続きなどアクセスできる手段は活用しつつ、言うべきことをしっかり主張していました。ただ、パウロの基本的な考えは、権威は神が立てたということと、その権威は悪を罰するために剣(実力)を帯びている、というところで変わりはないと思います。)
しかし、第二テサロニケ2:5-7によるなら、この原則は、この先反キリスト登場の時に向かって時代が下るにつれ、いささか異なった様相を呈していくということなのです。
どういうことかというと、
パウロもまた強調しているように、神によって立てられた「権威」は、本来「悪を罰する」のが務めであり、
政府がこの役割を果たしている状況においては、「不法の人」や「不法の秘密」がフルに活動することはないわけですね。
しかし、これを逆に考えてみると。
世の終わりに向かうにつれ、聖書がもし成就するなら、「不法の人」の登場を「引き止めるもの」は遅かれ早かれいなくなります。
そうすると、「不法の秘密」を「引き止めるもの」もまた、それに伴って消滅していく、ということではないでしょうか?
これをありていに表現すると、「人間政府が悪を抑制する機能を果たさなくなっていく」ということです。
「不法は不法ではない」
「政府が悪を抑制する役割を放棄する」なんてことを言うと、驚かれるかも知れません。
しかし、この現象はもうずいぶん前から観察されていることです。
筆者は2016年の米国大統領選挙を観察していたとき、米国を長きにわたって悩ませてきた不法移民の問題が大きな焦点となっていたことを知りました。
そこでは、不法移民に対する厳しい対策を掲げるトランプ候補(当時)に対抗して、不法移民の権利を訴える多種多様な取り組みがなされていましたが、
なかでも「彼らをillegal (不法)と呼んではいけない。undocumented (書類化されていない)と呼べ」という運動が筆者の印象に残りました。
不法移民を「不法」と呼ぶのはオフェンシブ。彼らも等しい権利に値する市民(??)の一部であって、ただ書類上の問題を持っているだけなのだからundocumented immigrants と呼ぶべきだ。
といったようなことがその主張です。
米国の不法移民問題にはもちろん、これよりはるかに根深い経緯があり、民主党政治家はもちろん共和党側でさえ臭い物に蓋をするようにして知らぬ顔をしてきた経緯もあり、一概に何が悪いと決めつけるのは難しい側面もあるのですが、
やはり他の国に断りもなく入ったり滞在するのは「不法」なことであるのには違いありません。
しかし、主に民主党側によって運営される「サンクチュアリ都市」では、不法移民の取り締まりを故意にしなかったり、連邦側の移民局の捜査にも協力しないといったことが公然と行われてきました。
そして、上記のような社会運動ではそもそも「不法」であることさえ言及させないよう「言い換え」が強力に推奨されています。
なお、「たかが不法滞在で目くじら立てなくても」という感想を持たれる方もいらっしゃると思いますが、
使徒の働きの17:26には
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
とあります。ですから、国の境もまた、神が立てた権威と同様、決して蔑ろにしてはならない「法」の一部、と言ったら言い過ぎでしょうか。
ともあれ、このように「不法移民の権利運動」が盛り上がってくると、
逆に厳しい国境管理を求める保守派市民が「ビゴット」「ヘイター」「レイシスト」といった悪罵の対象となる。
こういった現象は、米国政治をちょっと観察したことのある方はもうご存じと思います。
.....そうです。もはや、「不法=法」になり、「法=不法」になる。
法と不法との定義が完全に「入れ替わってしまって」いるのです。
そして、肝心なのは、中央政府であれ地方政府であれ、権威の側がいったんこちら(リベラル)の立場をとってしまったらどうなるか、ということです。
そうなると、神に立てられたはずの権威が「悪を抑制する」任務を放棄するのみならず、「不法」を「法」として擁護し、「法」の執行を求める声を「不法」として弾圧する、ということになります。
アメリカの崩壊
しかしこれは全く序の口に過ぎません。
思えば過去数年間の観察の結果、私筆者はこの「価値の転倒」が驚くほどの速度で進んでいることを発見しました。
上述の「盗むなかれ」の廃絶とも思われるような窃盗への刑罰の減刑とも関連していますが、
いま米国におけるリベラル派の検察官の間では、凶悪犯を減刑したり、その保釈金を安く設定することにより早期に刑務所から出して社会に解き放つ例が増えているそうです。
アメリカの崩壊 分断の進行でこれから何が起きるのか | 山中 泉 |本 | 通販 | Amazon
↑この本は、キリスト教とは全く関係のない、在米歴の長い日本人ビジネスマンの方が書いたものですが、
題名にたがわず、アメリカという国の「崩壊」っぷりがこれでもかと例示されています。
またちょっと蛇足になりますが、今米国では多くの公立学校のカリキュラムとして、「クリティカルレイスセオリー(CRT)」というものが教えられているそうです。
和訳すれば「批判的人種理論」といって、人種差別を法学的のアプローチで解決しようとする思想体系、という体裁らしいのですが、
要するに「白人、男性、異性愛者、キリスト教徒」といった「マジョリティ」とされる属性を持っている人は問答無用で「抑圧者」に分類され、
「黒人、女性、同性愛者」であったり、あるいは「トランスジェンダー」といった属性なら無条件で「被抑圧者」、
つまりはこのポリコレの世情のもとにあってはその権利を大々的に擁護されるべき「ヒーロー」のようなものと位置づけられます。
また、それとは別に、学校教育においては「性教育」の名のもとポルノ紛いの内容を子供たちに読ませたり、子供たちのうち「トランス」を自認しはじめる子が出てきたら親に知らせず「トランス」した性で扱うことにしたり、といろいろな問題が指摘されてきました。
最近、そういった歪なカリキュラムに反発し、学校に対して声を上げる保護者たちを、National School Board Association (全米学校委員会協会)が「ドメスティックテロリスト」という用語を使って非難し、司法省に対して対応を要求。司法長官がそれに呼応し「学校委員会への脅威」を監視するよう当局に指示していたことが報じられました。
ここまでくると、その倒錯はもはやどう形容したらいいでしょうか。
不法こそ法、法こそ不法
つまり、こうなってしまうと、「不法」を称揚することこそが(この世における)「法」であるかのようです。
また、既存の「法」を遵守している市民たちには欠片の値打ちも認められない。
むしろそのような人たちが「不法」を称揚しないならばその時点でこの世の「法」を犯しているとみなされかねない勢いです。
これ、聞いていると頭がこんがらがってくるでしょうか?
しかし、どうかこの点は皆さん覚悟してください。
今後、反対派とのせめぎ合い等を通しての「波」の満ち引きはあるかも知れませんが、
先進国、とくに西欧の政府は、ゆっくりと確実に、こういった方向に向かうでしょう。
従来からの人類の価値観は完全に「転倒」していきます。
それは日本も例外ではないかも知れません。
元々神を知らない日本人の文化や精神性は、歴史や伝統にのみ依拠しているものです。
果たして、それらをもって日本人社会が、第二テサロニケでいうところの「引き止めるもの」が取り去られることによる「不法」の発露を引き金とする人類の大変革に太刀打ちできるかどうかは、甚だ心元ない、と私は考えています。
まとめ
・「反キリスト」は「不法の人」という肩書を持っており、この「不法」の意味は、神が与えた法則を破壊しようとする志向を表していると思われる。
・パウロによれば、「不法の人」の出現は今引き止められている。「不法の秘密」もまた働いているが、これについても引き止める力が働いている。(が、その力はいずれ取り去られる。)
・米国を中心とした西欧の政府は、少しづつではあるが、「不法」を「法」と定義して擁護し、これに疑問を持つ者はたとえ遵法的な市民でも「不法」の烙印を押すという方向に動きつつある。
では、世の終わりに向けてこれらの現象が進行していくとしたら、教会やクリスチャンはどうなるのか?
携挙はいつどのように起こるのか?
次回はいよいよそういったことに触れていきたいと思います。