再開号につづいてまたもブックレビュー的な投稿となりますが、最近

The Rise and Triumph of the Modern Self: Cultural Amnesia, Expressive Individualism, and the Road to Sexual Revolution
 

という本を読み、これに甚だしく刺激を受けましたので書いておきたいと思います。

著者はCarl Trueman という人で、クリスチャンの神学者・歴史家です。

一体この本のどこが興味深いかというと、

著者は「現在隆盛を示しているトランスジェンダリズムは、60年代に始まった『性的革命』の延長線上にあり、なおかつその『性的革命』は17-18世紀に端を発している西洋の思想潮流のシフトの結果を示している」と主張している点です。

要するに、LGBT運動あるいはトランスジェンダリズムといった昨今の社会現象は無から生じたわけではない。その下地に「性的革命」があるというところまでは多くの人が気づいている点と思われますが、

この著者はその性的革命のさらに源流をたどり、それが思いもよらないほど早くから始まっているということを指摘し、

また西洋思想史では有名な各思想家を引いて、西欧社会で一般に受け入れられてきた「自己」に関する通念や規範がどのような経過を経て変化してきたのか、を事細かに論証しているのです。

かなりの長編で、読むのにかなりの骨が折れましたが(また私ブログ主自身に西洋哲学史の細かい部分の素養がないことも原因でしたが)、ここにできるだけ簡潔にその概要を書いておこうと思います。

「私は男の体に閉じ込められた女です」

現代のトランスジェンダリズムにおいて、表題のような文句や、あるいは「体は男でも心は女」といった表現を聞くことはもはや珍しいことではなくなりました。

半世紀前であれば一笑に付されたであろうこのような概念がなぜ今は幅広く受け入れられるようになり、それどころかこの概念に疑問を呈すること自体が不適切で非道徳的と考えられるようになったのはなぜか。

そして、ゲイ・レズビアンの権利運動の発生や性的革命、それらの背景を理解するには「現代人は自己というものをどう考えているか」すなわち「人生の目的、幸福の意味、自分が自分であることや、自分が何のために生きているか」についての現代人の認識の変遷を解き明かすことが必要と著者は言います。

この理解がなぜ必要かについて著者はこのようなたとえをします。「世界貿易センタービルは重力によって崩壊した。イエスかノーか?」

 

これは、「イエス」ですし、そう返答するのは、一見原理としては間違いではありません。が、現象そのものの背景(米国の中東軍事政策やイスラム原理主義について)を何ら説明していません。

著者によれば、「LGBT運動は人間の罪の表れだ」と主張するクリスチャンも同様の間違いをしている、といいます。人は皆罪びとなのは間違いありませんが、それでは同性婚やトランスジェンダーが、長い時間をかけた大きな社会的文化的変動を表す現象に過ぎないという点を見落としてしまう、ということが問題だというのです。

「自然に還れ」

著者は、この変動を説明するために、1700年代フランスの哲学者ジャン・ジャック・ルソーにまで遡ります。

ルソーの思想は「人間は自然状態では自己保存と同情の感情のみを持つ善い存在であったのが、社会によって腐敗され、名誉欲等の悪い感情を身に着けてしまう」と主張するものでした。また、「エミール」では理想の教育を「社会の枠に当てはまるよう児童を訓練するのではなく、社会の悪影響を受けず自らが発達できるよう子の内発性を守る」こととしました。

なお、著者はルソーの「告白」を、ルソー自らの内的心理状態の記述に強い焦点を置いているという点で先駆的であるというのですが、正確にはアウグスティヌスの「告白」が前例として存在し、ルソーはこのアウグスティヌスに返答するような形で人間であるとは何か、人間の性質とはどういうものか、を表現しているというのです。上述したルソーの思想はこの作品でも表れており、ルソーは自分が若いころ犯した盗みを社会からの影響に帰しています。

そしてルソーは「学問及び芸術の進歩は道徳を向上させたか、あるいは腐敗させたか」という課題の懸賞論文に応募する形で、文明は不平等の原因であり、社会制度こそが腐敗と悪を生み出すと主張しました。

自然で善であるはずだった個人を、社会こそが形作り、そして腐敗させるという考えかたは、著者が後に取り上げるリベラル思想潮流を理解するうえで非常に重要だと著者は言います。

「心理的人間」

ルソーの考えは西洋で今でも一般的に見られるものであり(実際、個人が経験する各種問題の原因を社会に帰することはもはや全く珍しいことではなくなりつつあります)、またルソーが自らの内的・心理的生活を、独自の自分を決定する最も重要な要素としたという点で特筆すべきと著者はしています。

外的な影響を排して、自らの自然発生的で内的な「声」に従うことが「真正な自己」として生きることにつながる、

ルソーは無論現代のトランスジェンダリズムなど全く予測していなかったでしょうが、ここに明白な共通点が浮かび上がります。

そして、ルソーは人間に自然に内在する感情(良心)によって倫理が存在すると考えていたようです。


しかし著者が指摘するに、もしもこの思想構造のまま、「良心が神的な存在により与えられた」という前提が消失すれば、もはや各人が主観的な感情のまま自らを決定する世界を招来してしまうのです。

エリートから大衆へ

人間が真正であるには、その内的な心理的性質を外に表現し生きること、そして社会は人間の願望を抑圧し自らを「生きにくく」してしまう「敵」であること、

そんな思想が既に18世紀から存在していたとしても、それは一部の知識人に限られていたことでしょう。

しかし著者は、パーシー・ビッシュ・シェリーやウィリアム・ブレイク、あるいはワーズワースなどロマン主義の詩人群がこういった「革命的」な思想を伝搬する役割を果たしたと見ています。

詩人たちは内的な感情を省察し、美や自然に触発された自らの感情を言語を介して読み手にも呼び起こそうとする美的な機能だけでなく、読み手を再び人間の真なる性質に繋げ、普遍的な何かに連れていくことを目指していました。

ワーズワースはルソーと同様に文明が人間の性質を損なうと考えており、18世紀終わりごろの劇的な発展と都市化による社会の歪みを背景に、ロマン主義詩人たちの間でこれは珍しいことではなかったということです。

やや後代の詩人シェリーはまた、人は「善く」あるためには想像力により他者の位置に自分を置きその痛みや喜びを感じる必要があり、またルソーと同じように、正しい感情が倫理を持つために必要であると考えており、詩はそのために働くものであると定義していました。またシェリーは政治的急進派であって、詩は読み手の心の中に自由や正義といったものを呼び起こす政治的試みであったということです。

特筆すべきは、シェリー自身はかなり若いころから無神論を奉じ、宗教制度を嫌っており(そのためにオクスフォードを退学させられるほど)、


またかなり現代のそれに近い「性的解放」というアイデアを持っていました。一時期には「ポリアモリー婚」のような生活を実践していたとされています。


実際、彼の詩作は「神こそが人間の圧政のプロトタイプ」という見方を明らかにし、また伝統的な性的規範への軽蔑を露わにしています。

著者は、シェリーを19世紀はじめに急速に起こりつつあった、以下に挙げる思想変容の特徴を代表するものと見ています。
1)道徳の根源は内的な良心、すなわち自然本能にあるということ
2)同意ある婚外性行為の法的取り締まりへの嫌悪
3)聖書をもとにした外的権威による道徳は単なる社会構築であり人間の性質を統治する自然法に反している、という考え方。

これらの思想変容は、驚くほど現代の性的革命運動と一致しています。

 

「健康的な」性的活動が本能によるものならば、それを阻害する制度は人間の真正さと自由を阻むものであり、さらに歴史的にはその制度を支えてきたのが宗教、すなわちキリスト教であるならば、性的革命家がこれをターゲットにするのは必然なのですが、

その根っこはすでにこの時点から始まっていたというのです。

 

また、シェリーの舅であるウィリアム・ゴッドウィンはモノガミーを人間の自然本能に反するものと見ていました。婚姻制度は不条理な束縛と抑圧をもたらすものであり、それは、その制度自らが解決せんとする問題をかえって造り出してしまうものであるから廃止すべきだと考えたのです。

シェリーも、「男女の結合はその感覚的悦びと心地よさに貢献する限り聖なるものであり、その利益よりも悪影響が勝ったならば自然に解消すべきと主張し、その解消には何の不道徳もない」と考えました。

 

(まったく、現代西洋人の結婚に関する態度を表すロジックと寸分たがわず同じです。)

さらにシェリーは、宗教と道徳は悲惨さと隷属をもたらすのであるから人間が幸福になるためには「神の本」のページすべてを破り捨てるべきとまで言っています。

ここで驚くべき逆転が起きているわけです。

 

「キリスト教的道徳観は、人が幸福になることを妨げる非道徳が正義の衣を被っているだけである」

このような考えは20-21世紀の現代人が発明したものではない、と著者は看破しているのです。

ニーチェ、マルクスおよびダーウィン

著者は続いて、その後西洋人の思想に多大な影響を与えた人物としてこの三人を挙げています。

ニーチェが極めて反キリスト教的であったことは多くの方がご存知と思いますが、ニーチェの特徴は、「神は死んだ」と宣言するのみならず、「神は死んだはずなのに、なぜまるで神が存在しているかのように振る舞うのか?」「神が死んだのなら、なぜ上から与えられているとされた規範や、それに基づいた制度や人生観を押し頂いているのか?」といった問いを同時代人に突き付けました。

ニーチェの登場により、人間は「自己創造的」なものであるという観念が決定的となりました。「神を殺す」ことにより、人間は自らが神的なものとして、自らの知や倫理を自ら編み出す必要に直面したのですから。

またマルクスが反キリスト教的(「宗教は人々の麻薬である」は有名です)であったのは言うまでもありません。マルクスは宗教やそれを基にした規範は支配層が不公平な社会の現状を維持することを正当化するために機能すると見ていました。

また、マルクスが後年の性的革命やトランスジェンダリズムの土台に大きく影響した点で特筆すべきなのは、「歴史とはすなわち抑圧の歴史である」として階級闘争の考え方を打ち出し、「抑圧と戦い、それを覆し勝利する」ことがすなわち歴史の進歩である、という世界観が見出されたことです。

 

また、マルクスの過激な物質主義的考え方では、全ての関係性は経済関係を含み、全ての経済関係は政治的力関係を含むため、「非政治的」な領域は社会に存在しないこととなっており、これもゲイライツ、トランスジェンダリズムその他の運動の特徴と符合します。

(このマルクス主義の性的革命への影響は後に詳述します。)

さらに、ダーウィンの進化論です。ダーウィンは思想家というより科学者ですが、その科学者であるがゆえに、「人間は猿から進化した」という彼のアイデアは、(たとえ物的裏付けがあったにせよなかったにせよ)極めてニュートラルで冷静な観察を表すものとして、一般に広く受け入れられました。

 

「科学的用語」で人間とそれを取り巻く世界を表すという点においてこれは画期的であり、西洋はもちろん日本その他の地域でもこの進化論が科学的『真実』であるかのように極めて高い信ぴょう性を持ってとらえられています。

これにより、人間は神が創造した特別なものであるといったHuman exceptionalismや、この世界や生命、人間の生になにか(単に人間の存在や営為を超えるような)目的がある、といった観念は粉々に打ち砕かれることになります。

フロイトの性欲理論

もう一人重要な思想を見ておかなければなりません。

19世紀末から20世紀初頭に活躍した精神分析家のジグムント・フロイトは、ヒステリー患者の原因が性的欲求不満にあるといった洞察から、やがて独特の「性欲理論」を構築しました。有名な話ですが、これは人間の発達段階に関わるもので人間は幼児の段階から性的欲動を持っており、口唇期、肛門期、男根期、性器期といった段階でそれがどう扱われるかが発達に大きな影響を持つといったものです。

フロイトの理論そのものは後年自身が修正したり、また後続の学者たちが異論を唱える部分もありましたが、ダーウィンと同様、冷静で科学的な用語で人間を説明するという点において、(特に西洋では)一般に高い信ぴょう性を持って受け止められています。

これにより、「性欲」「性的充足」というものが全ての人間の存在意義にとって極めて重要なものであるという考え方は決定的となりました。(さらに突き詰めていうと、人間の幸福は性的快楽、すなわち性器が与える快楽に直結している、ということになります。)

 

フロイト自身はまた、社会の存在は各人が性欲の充足を諦めることとトレードオフになっていると考えており(「快楽原則」と「現実原則」)、社会そのものが個人の充足と対立するものになっているというアイデアは上述の思想の流れと一致しています。

また、社会とそれが定義する性規範は、ユダヤ教徒の家に生まれたものの無神論を貫いたフロイトにとって、はなはだ相対的なものであったようです。

 

たとえば、「男は美女にキスすることは好むが彼女と同じ歯ブラシを使おうとしないのはなぜか?」といった考察を通じて、性的逸脱への断罪は、単なる個人的な嫌悪の感情に基づくものと主張しました。

さらには、フロイトは宗教を「親に依存していた子供の心理の名残り」のようなものと考えました。すなわち、人間は自らを取り巻く自然に依存し、それに左右されていたため、子供時代への親への依存関係をそこに投影し、神という存在を仮定し依り頼むのだ、と。

フロイトのこの「科学的」な理論を受け入れてか、性規範へのこだわりは単なる個人的な嫌悪の感情に基づく(「〇〇フォビア」)である、また宗教への拘泥は個人的な子供じみた拘りやあるいは心理的欠陥である、といった考え方が西洋で次第に地位を得ていくことになります。

マルクス主義とフロイト理論の「婚姻」

ルソーに始まりニーチェにつながる思想の流れにより、人間の内的心理状態がすなわち「自己の何たるか」であることを定義する最も重要なものであり、その内的感情が倫理であり、社会制度、宗教とそれが定める規範、特に性的規範は人間が「自然に」生きることを阻む悪であるという考え方がいよいよ強まってきました。

そこで20世紀に至ると、フロイトとマルクスの理論を合体させるような試みが始まります。

ヴィルヘルム・ライヒは、フロイトの性欲理論の一部である「エディプス・コンプレックス(男の子は母への性欲を持つが、父親への恐れからそれを抑圧する、等)」を応用して、「なぜある種の人々は抑圧されていながら抑圧者を打倒しないのか」といった命題を考察することで、

家庭そのものが小型の社会そのものであると定義し、その構図を社会全体における階層間の葛藤になぞらえました。すなわち、父権主義的な伝統的家庭は、それ自体が父権主義的な独裁のミニチュアであって、そういった独裁への反抗をしない服従的な人間を育てる装置として働いてしまう、と見做したのです。

ライヒはその名も「The Sexual Revolution」という本を著し、その中で、子供と思春期児童の性的自由を目的とした性的教育の必要性を説きました。いわく、自由な社会というものは「自然な必要」を満たすことが可能なもので、思春期児童が性的関係を持つことを禁じないとともに、それに反対する大人を厳しく取り扱わなければならない、というのです。

たとえば「ある親が、十代の息子に対してガールフレンドと性行為することを禁じるとしたら、それは不当な『抑圧』である」といった考え方は、(日本ではともかく)西欧ではそれほど珍しくなくなりつつありますが、1930年代といった時代に既にライヒによってその原型が提示されており、しかもそれはもともとマルクス主義的色合いを帯びた「政治的」命題であったことがここでわかります。

同時に、新左翼のヘルベルト・マルクーゼ(フランクフルト学派)は、社会の発展により、現代においてはモノガミーな婚姻と父権的家庭はもはや不要なものだと考え、そういった制度の継続はブルジョアジーがプロレタリアートを制御するための方便だと主張しました。

著者は、米国の消費者主義資本主義によって広く人々に物資が行きわたることで「階級闘争」への関心が薄れた際に、政治とセクシャリティを結びつけるマルクーゼの思想が重要な役割を果たしたと見ています。

また、マルクーゼの思想について現代の潮流に極めて近似している考え方が、教育へのアプローチです。マルクーゼは従来の言論の自由に否定的で、攻撃的な政策や排外主義といった言論や団体への寛容を止め、「正しい」政治意識を身に着けさせるため言論の自由に制限を加えることを考えていました。

このマルクスとフロイトの「結合」により、性欲、性的充足は人間のアイデンティティの核といえるほどの重要性を持ち、またそれを妨げることはもはや「政治的」反動行為(社会の現状維持のみを望む層による「抑圧」)と見なされるようになったのです。

パート2に続きます。