奇妙な質問       

 

 

去る三月のことですが、立憲民主党の石川大我議員が、小泉環境大臣(当時)に対する質疑の際、妻との間に子が産まれて1年余りの小泉氏に向かって

 

「お子さんの性的指向はまだ分からないかもしれないが、同性だった場合はどう思われるか」

 

と質問したことが報じられました。

 

この質問について私は甚だしい違和感を感じたことを覚えています。

 

「お子さんの性的志向」?

 

だって生まれて1年ちょいなのに、そんなものがどうして問題になるんでしょうか?

 

ていうか、他人の家のことになんでこんなに首を突っ込みたがるんでしょうか?

 

おかしいですよね?

 

でも、私は同性婚推進者と議論する過程でよく見かけたのですが、

 

「あなたの子がもし同性愛者だったらどうする?」(それでも反対するのか?というプレッシャーを込めて)

 

という問いを投げかける人、結構いるんですよ。

 

それどころか、海外では新聞記者が著名人にわざわざ聞くこともあるみたいですね。

 

https://www.afpbb.com/articles/-/3232641

 

ところで最近「選択的夫婦別姓」とかいう制度をしきりに推進している方々がいるのですが、

 

反対論者が「両親が別姓だったら子がかわいそうだ」といった議論をすると、

 

「他人の家庭内のことは関係ないだろ」と取り合おうとしないことが通例です。

 

「他人の家庭内のことは関係ない」なら、同様に、他人の家の子が何性愛者に育とうが、それを親がどうとらえようが、しょせん他人の家のことのはず。

 

ところが、どうしてか他人の家の赤ん坊や子の性的志向について奇妙なまでの関心を寄せるこのLGBT運動のありようについては

 

「他人の家庭内のこと」

 

という原則は適用されないみたいなんです。

 

私はこのちょっとした「不思議」についてつらつら考えてみたときに、こんなことを思いました。

 

変遷する「幼な子の『価値』」

 

https://ameblo.jp/tfjblog/entry-12667678835.html

 

先日取り上げた The Rise and Triumph of the Modern Self という本で、著者の Carl Trueman は西欧の思想の流れが「個人の内的・心理的自己」にますます価値を置く半面、

 

「人間の生命には(胎児であろうと何であろうと)等しい価値がある」という考えは後退していることを指摘しています。

 

これをわかりやすく言えば、たとえば中絶の問題について論じるなら「女性の内的・心理的自己が定義する幸福感を保護すること」が、「胎児の『生命』」よりもはるかに価値があるというポジションが支配的になっている、ということです。

 

また、同著で Trueman が取り上げた、ジョグジャカルタ原則という性的少数者の権利保護のために提案された原則では、性的少数者が家族を持つ権利、そのために「支援された生殖」を行う権利をも明記していますが、

 

Trueman はこれについて、「家族を持つ」という営為が「性的少数者の内的・心理的自己の幸福感に奉仕するためもの」と見られているのではないか、と警告しています。

 

これも平たく表現すると、要するに性的少数者の『子を』持ちたい、という願望、あるいは『家族』を持ちたい、という欲求の前には、

 

「支援された生殖」(つまり代理母や精子提供)により生まれた子が持ちうるアイデンティティの混乱やその他の起こり得る心理的悪影響などは一顧だに値しないと思われているのではないか、ということです。

 

もっとあけすけに言いましょうか。

 

LGBT運動の文脈では、ほとんどうまれたばかりの赤ん坊でさえも、その「性的志向」がこの先どうなるのかに多大な関心が寄せられることがあり、

 

その反面、その赤ん坊と大して月齢が違わないような胎児が中絶処置させられても、誰も何も言いません。

 

また、ゲイやレズビアンが「家族を持ちたい」という願望は、代理母・精子提供を通じて生まれ、その後自らの出自について悩む可能性の高い子供たちの人権よりはるかに重大だと思われているかのようです。

 

いみじくも、かつて西洋では「人はすべて神のかたちに似せて造られている」という聖書の思想が、子殺しや中絶を禁じることにつながっていきました。

 

しかし、今はその思想は退潮し、自らの「被抑圧者」としての「アイデンティティ」を政治的に、声高に主張する者の権利こそが大事だという風潮になっています。

 

ぶっちゃけ、赤ん坊や胎児は自分で自分のアイデンティティを主張できないので、このような「アイデンティティ政治」のさなかにあっては、たとえどんな目に遭っていても取り残されてしまう、というわけです。

 

いや、もっと悪いのは、冒頭の石川議員のように、自分に何のかかわりもないような赤ん坊を取り上げて

 

「もしこの子が同性愛者だったらどうする!」

 

と自らの政治活動のために利用することさえ行われている、ということです。

 

声のない存在は、打ち捨てられるだけではなく、政治の駒としていいように利用されることさえあるわけです。

 

トランスキッズとその親たち

 

米国のリベラルなコミュニティでは、

 

ひとたび子供が「生まれつきの性別とは違うと感じる」ことを表明したならば、一切反対せずその「自認する性別」に沿った育て方をすることが親には推奨されているようです。

 

それだけではありません。自分の子がトランスであることを喜び、誇りに思い、疑問をさしはさむことなく嬉々として子供の「トランジション」を進める親というのも、少なからず存在するようなんですね。

 

私は興味深いものを見つけたのですが、以下のウェブサイトでは、マーメイドという別のトランスコミュニティに寄せられた、トランスジェンダーキッズの親たちによる投稿を集めています。

 

 

その中には、自分の子供がトランスをカムアウトしたというのでいそいそと「トランジション」の用意をしたり、他の経験豊富な「トランスキッズの親」たちに助言を求めたりするものが数多くあるようなのですが.................

 

何か「様子がおかしい」のです。

 

 

ある母親は、3歳の子を男子から女子へ社会的にトランスさせている最中で、そろそろジェンダークリニックに連れていく頃合いかも知れないと思い、詳しい親に助言を求めています。

 

さ.........3歳...........ですか(汗)。

 

 

また、別の母親は、4歳で幼稚園児である(元)娘が男子としての自認を主張しているというのですが、

 

どうしたわけか(?)その子は長い髪を好み、女子の服装を選び、また男子の名前で呼ばれることを嫌がっているとか。

 

この母親は、事情に詳しい人たちに向かって「(トランスの)子供って、いつ服の好みが変わるのかしら?いつ新しい髪型を求めるようになるの?いつ私たちのつけた名前を試そうとするのかしら?」と質問しています。

 

いや、でもこの場合、そもそも「トランス」させる必要あるんでしょうか?

 

 

べつの親からは、「うちの子は男の子に留まると言っている。4歳のとき彼女は女の子になりたいって言ったのに。私は混乱し、これをどう受け取っていいのかわからない。他にこういう経験したひといる?」なんていう投稿も。

 

我が子がトランスしなかったことに失望しているかのようです。

 

それにしても、近年のトランス活動家による洗脳効果恐るべし。

 

これらの親たちは完全に

「うちの子がトランスって告白したわ!」

「まあなんて素晴らしい!」

「全力でサポートしなくっちゃね!」

という反応しかなく、

 

逆に子がトランスをやめると言い出すと落胆する始末(汗)。

 

さらには、就学期よりもはるかに幼いこの年齢で始まる「トランジション」が私ブログ主には結構な衝撃でした。

 

今まで、私を含め日本人の多くは、「LGBT問題」の端緒は「思春期」から始まる、と思っていたのではないでしょうか。

 

つまり、思春期少年や少女が、自分の体の発達や、異性(あるいは同性)への興味の高まりを経て、自分のアイデンティティを探し求めて苦闘する、といったものです。

 

ところが、上記のようなコミュニティーでは全く違うことが起こっています。

 

ここに存在するのは、トランス活動家が典型的に示すであろうう指針を忠実に守り、

 

「子供がトランスを自認したら一切疑問を差しはさまない」

 

「全て子供の望むようにさせる(ここではよく、「follow their lead..」といった言い回しが使われます。つまり、「子供たちの指示に従う」という意味です。)」

 

そんな親たちとともに、

 

早ければ3歳で「ボク・ワタシはトランス」と告白する子供たちが多く存在する、ということです。

 

この、親子の組み合わせにより、「T」問題の発現は、もはや従来考えられていたレベルをはるかに超え、性徴期などまだ影もないような年齢から始まるようになっています。

 

さて、そのように「親と子の連携」が「成功(?)」し、晴れてトランスキッズとして成長していった子供の一例がテキサス州に見られました。

 

保守的なこの州で「未成年にホルモン治療をするのは有害」ということで禁止する法律が制定されると、

 

10歳の「カイ」というトランス「少女」が公聴会に出席し、自分たちの権利を奪わないでほしい、とスピーチをしたと報じられています。

 

https://dailycaller.com/2021/04/16/kai-shappley-texas-trans-girl-surgeries/

 

聖書から聖句を引用して弁論を結んだ、というから、恐るべし、大人顔負け、です。

 

このような「進歩主義」運動では子供を前面に出すことは往々にして見られます。(有名どころではあのグレタ嬢とか。)

 

子供の言っていることに反対するのは、いかにも弱い者を虐めているように見えるからですね。このように子供がホルモン療法をせがめばそれはそれは哀れっぽく見えるでしょう。

 

しかし、トランス界隈を一歩出れば、ふと気づく人もいるでしょう。

 

そもそも飲酒や喫煙さえも法で禁じられている子供たちが、身体の成長を変えてしまう薬物を許されるべきとするのはなぜか?

 

この常識的な前提は、しかしトランス言論界では無論断固として無視されています。

 

見たところ、この子供が自分自身トランスしたいと考えているのはそれほど疑いのないことです。(ただ、そうすることで周りからちやほやされることがインセンティブになっている可能性は排除しきれないと私は個人的に考えますが。)ともあれ、彼女?の主張は、トランス活動のアジェンダにこれ以上ないほど完璧に一致しています。

 

男の子として生まれた子が「自分は女の子」と言い、女物の服を着たがったら、その子は女の子なのだ

 

その子を女の子として扱わなかったり、ホルモン治療その他「トランジション」に必要な手段へのアクセスを与えないのは「虐待」だ

 

しかしその一方で、統計的にそのような子供の圧倒的多数は成長するにつれて性別違和から脱することがわかっているのです。

 

https://dailycaller.com/2020/11/23/hbo-transgender-toddler-lgbtq-announce-sexual-identity-transhood/

 

↑4歳のとき公の場で女の子へのトランスを表明するように母から促されたシャイなフェニックス少年は、7歳のとき再び男の子を自認するようになり、その母は現在トランスジェンダーアイデンティティを「精神障害」と呼んでいるといいます。

 

しかし、トランスジェンダリズムに反対する保守派が、このように一度トランスを自認し再び生まれつきのジェンダーに戻るいわゆる「デトランジション」を経験した子供を「広告塔」にし、活動を展開することはありません。なぜなら、政治的争いに子供を晒したくはないからです。(これもまた考えるまでもなく当たり前のことですが。)

 

しかし、この「カイ」というトランス「少女?」は、その役者顔負けの才能もあってか、どうやらトランス界では「勇気ある声」として今後も重用されることになりそうです。

 

子供をめぐる大いなる「不均衡」

 

上記のような前提を踏まえ、私は読者の皆さんに対してこの大いなる「不均衡」に注意を払うようお勧めしたいと思います。

 

つまり、LGBT界においては、この世に生まれてきた子は誰であっても

 

「もしこの子が将来LGBTになったらどうする!」という彼らの「心配」の対象になります。それは誰の子であっても例外なく、です。

 

その反面、例えばの話ですが、「ゲイカップルの間に引き取られた、あるいは代理母出産で生まれた子は、「もしかすると父母揃った家庭を羨ましがったり、自分の遺伝的親を知りたがるんじゃないか?」という問いかけは

 

「他人の家庭に口出しするな」という一言で言下に否定されることは、想像にかたくないことです。

 

そして、LGBT、とくにTを自認する子供が現れると、その声は最大限にまで拡大され、その欲求(ホルモンが欲しい、等)は最大限にまで応えるのが大人の義務、あるいはそれをしない大人は虐待をしているのだ、とみなされます。

 

反面、「大きくなってデトランスする子もいる。そんな小さいころからホルモンはやり過ぎだし危険ではないか?」という問いかけはやはり却下されます。そもそも「デトランジション」などという現象はこの世に全くないかのようです。

 

つまり、LGBT推進運動の中では、

 

およそこの世に生まれ落ちた全ての子供たちが「もしかするとLGBTになるかも知れない」要員であるとともに、

 

「同性カップルに育てられ不幸を感じた子供」や「デトランジションした子供」というものは、まるで存在していないかのように扱われる。

 

ですから、彼らはおよそ子供全般を自分たちに都合のよい存在としか認識していないように見えるのです。

 

自らの願望を子供に「投射」する

 

冒頭の石川議員の、不躾とはいえ、何気ないようにも聞こえる質問には、私は重大な何かが隠されているとずっと考えてきました。

 

公の場で、仲が良いわけでもない赤の他人に向かっていきなり「もしおたくのお子さんの性的指向が」などという仮定の問いかけをするのは、

 

「人間として礼儀がなっていない」ということに留まらず、それ以上に何かがあると思っていたのです。

 

思うに、石川議員にしてみれば、もしも小泉元大臣の(あるいは他の閣僚や自民党の有力議員でもいいですが)子のうちの一人がLGBTを自認し、それを見て彼らが積極的に同性婚を推進するなどといったことが起きれば、まさに願ったりかなったりといったところでしょう。

 

だから、深読みすれば、石川議員は多少なりとも「自分の願望を投影した質問をしている」と解釈することもできる、と私は考えています。

 

私のようにあまり「プログレッシブでない」者にとっては、自分の子供は自分の子供、よそ様の子供はよそ様の子供です。他人の子について、多少の意見を表明したりはするかもしれませんが、それにしてもここまで不遜なことは言いません。

 

しかし、LGBT界隈では物事は大きく異なるのかも知れません。

 

米国では、Alok Vaid-Menon というジェンーダー・ノンコンフォーミングを自称する活動家がSNS投稿した内容が、大きな波紋を呼んでいます。

 

 

最近、トランスジェンダーがトイレに入ってきて幼い女児たちを虐待するなんて言われてるわよね。  

 

犠牲者の純潔とかいう[神話]がまだ淀んでるのね。

 

王女さまなんていないわ。幼い女の子たちだってヘンタイなのよ。あんたの子供たちは、あんたが考えるほど真面目でも不寛容でもないわ。」

 

これを読んで吐き気を及ぼした読者の方には謝罪します。しかし、今LGBT界隈でなにが起こっているかを直視していただくためにあえて掲載、訳出させていただきました。

 

この人物は、幼い女の子たちも性的な興味から「冒険」をしたがっているかのように主張し、それをもって過剰に警戒的な親たちを戒めようとしているかのようです。

 

ここで「こいつに子供の何がわかるっていうんだ!」という憤りを感じた方、どうかぐっとこらえてください。

 

この人物は、どう控え目に見ても自分の変態的願望を子供に投射しているだけのように見受けられますが、

 

ここで「彼らの関心の対象は、なぜ『子供』、しかも『幼い子供』なのか?」ということを考えると見えてくるものがあります。

 

たとえばちょっと想像してみましょう。

 

小泉元大臣に質問した石川議員にしても、もしその質問相手である元大臣の子供がもう少し年かさだったら、

 

もしかすると「いや~うちの息子、いま同じクラスの女の子に夢中でしてね」とか、

 

「実はうちの娘、ジャニーズの誰それにハマってましてねえ」といった答えが返ってきて、

 

質問者である石川議員自身が見事に「撃沈」してしまうかもしれません(笑)。

 

しかし、相手が産まれて一年程度なら、その心配はありません。

 

だからこそ、この質問なのです。

 

これは、Avok氏についても同様のことが言えます。

 

もしもAvok氏が「ティーンの女の子たちは女装男子にいやらしいことをされたがっている」などと主張したとしても、その当のティーンの女子のうちの誰かから

 

「キモッ。なにこのオッサン」

 

と吐き捨てられたら、自分のナラティブはあえなく崩壊してしまいます。

 

だからこそ、彼がその欲望を投影し仮託するのは、そういった言葉や意識を持たない「little girls(幼女」に限られるのです。

 

決して反論することのできない「赤子」や「幼児」を、自らのアジェンダの潜在的な「アライ」として引き込もうとしている、という点では、よく似通っている、と私は思います。

 

対象年齢を間違えている?

 

数年前から、英国および米国ではドラアグクイーンストーリーアワーという運動が展開されており、

 

そこでは女装したドラアグクイーンたちが、幼稚園児くらいあるいはそれ以下の年齢の子供たちを招いて、絵本の読み聞かせを行っています。

 

https://ameblo.jp/tfjblog/entry-12520902059.html

 

https://www.dailymail.co.uk/news/article-5073601/Transgender-lessons-2-year-olds.html

 

https://www.lifesitenews.com/news/satanic-looking-drag-queen-reads-to-children-at-library-named-for-michelle/

 

ちなみに、類似のイベントは今は日本でも行われるようになっています。

 

 

 

やはり、ここで親に連れてこれらてドラアグクイーンの話に耳を傾けている子供たちは、大きくても未就学児くらいの子のように見えます。

 

しかし、トップページに「ボクらしさ、ワタシらしさ、フツウっていったいなんだろう?」と銘打ってはありますが、

 

それくらいの歳で果たしてそんなことについて深刻に悩むものなのでしょうか?

 

たとえば、「『性的指向』が周りの友達と違う」などといった悩みが本格的に生じてくるのは、多くの場合中学生くらい、どんなに幼くても小学校中学年~高学年くらいでしょう。

 

だから、もしもこれらドラアグクイーンたちが、そういうことで悩む子供たちを助けたいと思っているなら、対象年齢を間違えているような気がします。

 

ところが、この「読み聞かせ会」に招かれる子供は、はるかに年の幼い子たちです。

 

それも、女装した男性に対する違和感を感じたとしても、それを表示する言葉を持たないか、

 

あるいは、それを表明したところで「ウォークな」(リベラルな価値に目覚めた)親から「そんなこというもんじゃありません!」と怒られたら素直に従う程度の年齢の子供が想定されているかに見えます。

 

要するに、まだ自我が発達していない子供です。

 

そうすると、私ブログ主の脳裏には不吉な予感がよぎるのです。

 

LGBT運動にとって「一騎当千の戦士」

 

LGBT運動について、私は以前「アイデンティティの戦争」というものが起こりつつあるのでは、という観察を投稿しました。

 

同性婚推進論者たちは、「同性愛者」という内的アイデンティティを社会全般に認めさせるため果てしない戦いを遂行しようとしているという観察です。

 

しかし、もしかするとこれでもまだLGBT活動の全容はとらえきれていなかったかもしれない、と私は今になって思います。

 

このアイデンティティの戦争においては、LGBT活動家は、自分たちが多くの人たちから理論的そして感情的な反対に遭うことを、よくわかっているのです。

 

しかし、その対象が子供なら、彼らは安心して自らの願望や欲望を仮託して語ることができます。本人から何らの確認をとる必要もありません。

 

「もしあなたの子が将来LGBTになったらどうする?」

 

この言葉を投げかけられた親たちは、一瞬「ウッ」と言葉につまってしまうでしょう。

 

そのようにして、赤の他人の子を仮想的であるにしせよ一瞬にして味方に変えることができ「ビゴット」な親を黙らせられるのですから、こんなに楽な戦術はありません。

 

彼らはこのようにして、自分たちのアイデンティティを社会全般に認めさせようとする戦いを推し進めることに加え、

 

声のない幼い子たちのアイデンティティまでも強引に簒奪しようとしています。

 

そして、上記の「ストーリーアワー」にとどまらす、

 

自我のまだ固まらない子供達に向かって

 

男の子だって女の子になれる

 

女の子だって男の子になれる

 

男の子/女の子同士で愛し合うのは素晴らしいこと

 

といったメッセージを刷り込もうとする努力は、いまや至るところで行われています。

 

しかし、子供を巻き込んだアイデンティティの戦争の真骨頂は、その先にあります。

 

それは、彼らが今着手しているLGBT幼児教育が実を結べば、

 

もう少し大きくなった子供がLGBT当事者、あるいはそのアライになる可能性が高い、という点です。

 

ひとたびそのような子供たちが現れれば、LGBT運動はその子供を動員し、反対する者を「子供を虐める悪者」として徹底的に指弾するでしょう。

 

 

↑ 2015年オハイオ州で行われたプライドパレードにおいて撮影された、レインボーフラッグを掲げた7歳の少女がキリスト教宣教師と対峙する写真です。

 

無論、これらの子供が、自分が支持しているものが本当は何なのかを理解しているかどうかは全く関係ありませんし、そもそも理解していなければならない必要もありません。

 

そうすると、なぜドラアグクイーンがわざわざほかでもない「幼児相手に」読み聞かせを行うのかも筋が通ってきます。

 

彼らにとっては、たった一人の「LGBTキッズ」あるいは「子供アライ」でも、大人の活動家100人、いや1,000人にも匹敵する強力な援軍なのです。

 

それを考えたら、その教育の対象となるのはもっと年少の子供でなければなりません。

 

そして、上の写真の少女のように就学年齢前くらいから「アライ」として働いてくれれば、あらゆる反対者を悪として演出できるでしょう。

 

ましてや、「アライ」にとどまらずLGBT「当事者」となってくれれば、ほとんど「無敵」です。

 

あのトランス少女「カイ」のように広告塔になってくれればよし、

 

たとえそうならずとも、その子が存在するだけで、LGBT活動側はことあるごとに引き合いに出し、

 

「この子は今幸せだ!この子を否定し、その居場所を奪うのか!」

 

と反対者を一喝することができるようになるからです。

 

だから、彼らはLGBTに懐疑的な多数の大人たちを論理的に説得するような手間は取りません。

 

むしろ彼らにとって必要なのは、彼らに賛同してくれるほんの一握りの「ウォーク」な親たちだけとなります。

 

その親たちさえ引き込めれば、真っ白なキャンバスのようなその幼な児たちの心を、思う存分かれらの歪曲された思想で埋め尽くすことができるのです。

 

それが「実を結び」、LGBT「第二世代」、「第三世代」が出現することを、彼らは予期しているのでしょう。

 

「ウォーク親」とその子供の顛末

 

この点を考えると、LGBT運動がどれほど冷酷なものであるか、わかろうというものです。

 

この運動は、利用できるものは赤子や幼児、子供でさえ利用するのです。

 

LGBT運動では、子供というものはすべからく何等かの形で彼らの運動の益となる存在としてのみ価値を認められるかのようです。

 

いや、これは冷酷という言葉では表現しきれないかも知れません。

 

私は、これを一種の「幼児犠牲 (child sacrifice)」ではないか、と考えます。

 

リベラルな界隈では「残酷だ」と批判されることの多い旧約聖書の神ヤハウェですが、この神は異教で盛んだった「幼児犠牲」の習慣を厳しく戒めたことで他と一線を画していました。

 

ヤハウェの忌み嫌った偶像崇拝あるいは異教の礼拝行為には、現代の我々には想像がつかないようなおぞましい習慣があったことをご存じの方も多いでしょう。

 

幼児を焼いて犠牲に捧げる、神殿娼婦や男娼と乱交する、等々。

 

旧約聖書をよく読んだことのある方ならおわかりと思いますが、

 

実はヤハウェへの礼拝というのは、「動物」を犠牲としてささげることはあっても、人間を犠牲とする、あるいは殺さずとも性的な形で供物とする、といった習慣は一切ありませんでした。

 

「礼拝」という大義名分が、人の尊厳を冒す口実として利用されないように緻密に制度設計されていたのです。

 

しかし、異教では偶像への礼拝がすなわち殺人や、自らの身体を傷つける、もしくは人を性的な供物とする、そういった習慣に直接つながる例が多数存在していました。

 

要するに目的が手段を正当化していたわけです。

 

私は、いま米国はじめ海外で猛威を振るいつつある「トランスキッズ」ブームが、「ウォークネス」という大義名分のもと子供の身体をホルモン剤で変形させ切り刻む異教儀式のように見えてなりません。

 

繰り返しますが、性別違和の圧倒的大多数は、成長につれて消失するのです。

 

それなのに、幼い子が3歳でトランスを告白したことを喜び、もろ手を挙げて「トランジション」に勤しみ、医者に連れていくことを検討し始める「ウォーク」な親たち。

 

そういった親たちの背後にいて「トランスナラティブ」を巧妙に注入する活動家たちは、まさに喉から手が出るほど「トランスキッズ」を欲しがっているのでしょう。

 

しかし、これらの親たちは長期的に見て「トランスキッズ」に何が起こるかは何も知らないし、

 

活動家たちもまた、そのような情報は「存在しない」かのように振舞っています。

 

私は最後に、トランスジェンダー「少女」を育ててきたある親の悲痛なSNS投稿をご紹介したいと思います。

 

読んでいて気分の良くなるようなものではありませんが、この狂気の沙汰の本質が何重にも表れているような投稿です。

 

 

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どうしたらいいのかわかりません。娘は下半身の手術ができず自殺的傾向にあります。 

 

こんにちは、  私はいつもトランスジェンダーの娘をサポートしてきました。

 

彼女がまだ男の子で、女の子になりたいと言い始めたとき、私はすべてを正しくやりました。

 

セラピスト、そして思春期抑制剤、すべてです。 

 

 現在、彼女は20歳ですがすべてがボロボロです。費用の関係で体の手術を延期しなければなりませんでしたが、ようやく十分な資金を手にし、何度か相談を受けました。しかし誰もが同じことを言っています。

 

二次性徴抑制剤の影響で彼女には極小のペニスが残りました。彼女は、結腸を使って膣の一部を形成しなければなりません。

 

彼女の友人の一人がその手術を受けましたが、数年後でもそれはかなり結腸のようなにおいがします。

 

 明らかに私の娘は今取り乱しています。彼女はカウンセリングを受けていますが、彼女の精神状態はどんどん悪化していて、私は必死です。

 

その上、彼女は性的機能を持ったことがありません。彼女が自分自身を刺激することができるかどうか確かめるためにマスターベーションを試みたときでさえ、衝動も勃起もありません...何も。

 

医師は、これは手術後も変わらないかもしれないと言います。  彼女の交際生活も悲惨です。これが大変であることはわかっていました。しかしもう私には不可能です。

 

しばらく一緒にいた一人のボーイフレンドは、すぐに性的なものがないことに不満を感じ関係を切りました。

 

どうしたらいいのでしょう?友人は私が助言を得るためにここに投稿することを提案しました。

 

私の子供を救うのを手伝ってください!

 

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悲しいことですが、間違いがどこから始まったのかは明白です。

 

男は女になれず、女は男にはなれない。その境目を越えて向こう側に到達することは、決してできないのです。

 

人が子を育てるということは、その場限りのことではなく、その子の将来のことまで考えなければなりません。

 

LGBT活動家は、あなたの子の健康や幸福などカケラも気にしていません。

 

彼らにとって、子供は「祭壇に捧げるための供物」に過ぎないのですから。

 

今現在、日本でも「ウォーク」に目覚め始めている親がチラホラと見られます。

 

しかし、その裏で何が起こりつつあるのかを、少しでも多くの人たちに知っていただきたく、

 

不愉快になるような内容であることを承知で、今回の投稿をさせていただきました。