同性婚法制化に関する札幌地裁判決とその余波について

3月17日のことですが、同性婚を国が求めないのは憲法違反だとして国に国家賠償を求めていた裁判で、判決が出たとの報道がありました。

裁判長によれば、同性カップルについて保護制度がないのは憲法14条に違反している違憲状態という判断。なお、国家賠償については、違憲状態が生じたことについては国の過失を認めないので賠償請求は認めませんでした。

この判決についてはさまざまな反響がありましたが、私自身はかねてから同性婚の是非に関する議論について国内海外問わずウォッチしてきましたので、改めてこの問題について書きたいと思います。

同性婚をめぐる議論にみられる特徴的な問題

同性婚を法制化すべきかそうでないかについて何か書く以前の話として、指摘しなければならないことが一つあります。

それは、同性婚法制化推進派と反対派の議論が、最初から全く噛み合っていない、議論になっていないということです。

ごく乱暴に言ってしまえば、推進派に関しては同性との婚姻を国家が認めない現状を「差別」と断ずる、その一点突破のみであり、

対して反対派には、偽装結婚といった不正への懸念、あるいは憲法24条との齟齬を指摘する議論、さらには私が以前してきたように社会の価値観が大転換してしまうことを危惧する

とさまざまですが、大きくまとめると反対派の反対理由としては、社会制度としての何らかの欠陥や悪影響を懸念するものが多い、ということが言えるでしょう。

そこを踏まえると、推進派は、この問題を社会全体に広範に影響する可能性のある法制度・システム設計の問題としてとらえるというより、

 

あくまでも同性での婚姻を望む層の社会に対する要求が満足させられるか否かの問題としてとらえていると考えられるでしょう。(満足させられない現状は「差別」。)

それと対称的に、反対派は最初から婚姻制度といった社会システムを個々人の要求を満足させるためのものととらえておらず、社会をより堅固に存続させるためのものと考えるので、

両者の議論が噛み合うことは決してないのです。この問題を考察する上で、まずこのことを頭に入れる必要があるでしょう。

反対派の議論が「通用しない」理由

これを念頭にすると、なぜこの問題をめぐる議論がある種奇妙な様相を呈しているのかが見えてきます。

先日、憲法学者である木村草太氏が、都議会議員の音喜多駿氏の発言(「同性婚には憲法24条の改正が必要」)を取り上げ、ウェブイベントで「差別」と断じたことが話題になりました。
 


推進派の中の急先鋒と言えるこれらの人士は、あたかも同性婚法制化に少しでも障害となる議論をする者は、その論拠や動機を問わず、すべからく「差別主義者」であって、糾弾され黙らされるべきだと考えているようですが、

今回の判決はいち地裁の判決に過ぎず、高裁も最高裁もどう判断するかは未知数で、加えて法制度として同性婚が国会を通じて成立したわけでもないのに、

 

もはや形勢は完全に決しており反対の余地は全くないとでも言いたげです。

実は、このような論調は札幌地裁の判決よりはるか前から見られました。
 


過去記事から。ある活動家のツイッターより

「昨日の同性婚イベントでは、木村草太さんが「世論調査も『同性婚に賛成ですか?反対ですか?』と、まるで同性婚を拒否する権利があるかのように思われる質問ではなく、『同性婚を認めるとあなたにどんな不利益がありますか?』と差別を表明できないように議論した方が良い」という意見が印象的でした。」

ですから、札幌地裁の判決いかんを問わず、推進派の中の中核層ともいえる人たちの中には

 

「同性婚法制化」の思想が絶対的に無謬であり、

なんびとであってもそれを拒否する権利はない、

あまつさえ同意しない者はよほど頭が悪いか「差別主義者」のどちらかである

 

と固く信じている論者たちが存在しつづけてきたことが伺われます。

また、このような人たちが、議論の過程で反対派が示す懸念や不安にまともに取り合っている例はほぼ皆無で、

 

むしろ彼らは同性婚法制化による負の社会的影響といったものにもとから関心がないとさえも言えるでしょう。
 

従って、彼らと「同性婚を認めないのは差別か差別でないか」や、「同性婚を導入した場合の悪影響」の有無」といった議論をしても、ほぼ無意味なのではないか、というのが私の感想です。

ベン・シャピロの達観

ところで、米国にベン・シャピロという保守派の論客がおり、私は彼の本を読んだことがあります。彼は「How to Debate Leftists and Destroy Them: 11 Rules for Winning the Argument」というディベート方法の本を書いており、その中で左翼と討論するために「相手の話法の虐待的な点を突く」ということを戦術のひとつとして挙げています。

彼は、左翼主義者との討論で事実関係を指摘したり議論の矛盾を突いてもすぐ口からの出まかせで言い逃れされたり論点を逸らされたりしてしまうことも多いので、これを踏まえ相手がいかに「いじめっ子」であり、虐待的かというところを明らかにするという戦術も考慮すべきと助言していました。

私自身はシャピロのようなディベートの達人でもなんでもなく、また彼の助言を取り入れて同性婚推進論者との議論に勝とうと意図しているわけでもありません。

しかし、彼のような識者であっても、左翼との議論にこのような側面があると感じているという点で、興味深いと思いました。

これは往々にして言われることですが、保守派にとって議論とは互いに事実をもとにして論理的思考を駆使して行うものであるのに対し、

左翼にとってこれは、往々にして事実も論理も重要でなく、むしろ自分たちのドグマに同意しない者をいかに叩き潰すかという営為に過ぎません。

だから、保守派が「相手(左翼)も自分と同じルールで闘っている」という幻想を捨てない限り、何一つ現実は見えてこないわけです。

それと同様に、同性婚推進派の中心的人士たちもまた、反対派と議論するつもりなど全くなく、ただつるし上げて叩き潰すのみ、と考えているであろうことは頭に入れておくべきです。

「婚姻『制度』どう作るの?」推進派が無視する議論

とはいえ、私は(以前の投稿を読んでいただいた方はご承知と思いますが)同性婚反対派ではあるのですが、かといって自分もまた彼らさながらの戦闘的な姿勢をとろうとしているわけではありません。


私の場合は、そうではなく、「同性婚姻『制度』とはそもそもなにか」を考えてみることによって、反対派の中にある「同性婚」というアイデアに対するモヤモヤとした思いを言語化できるのではないか、

そしてその営為を通じて、推進派が一体何を建て上げ、あるいは何を破壊したいと思っているのか探れるのではないか、と思っています。

さて、当該の訴訟で、国側は

婚姻制度について、「夫婦が子どもを産み育てるための共同生活を送る関係に法的保護を与えることを目的としたもの」

と主張したのに対し、原告の要求を部分的に認めた判決で裁判長は

「子どもを産み育てる夫婦を法的に保護することは結婚制度の目的の一つだが、本質ではない」と指摘したのだそうです。

この「本質ではない」という指摘は、一体どこから出てきたのか、あるいは「単なる彼女の個人的主観では?」と私などは思うのですが、

ともかくも、子を産み育てる機能が「結婚という制度の(中心的か周縁的かは置いておくとして)目的の一部分である」であることは裁判長も認めるところということになります。

つまり、「結婚とは何か」を考えるとき、同性婚の賛成派であれ反対派であれそれが「人と人とが結びついて扶助しあう」という疑いのない中心的定義があることに加え、

時として「子を育てる」というオプションが加わるわけです。これには誰であれ異論はないと思います。

そうすると、この判決をそもそもどう解釈するかによって、新たな問題が生じてくることになります。

もしも、この判決を「同性カップルになんらの法的保護をも与えないのはいくら何でも不合理だ」というように限定的に解釈するならともかく、

「異性婚と完全に同等の同性婚を法制化しないのは差別」と解釈してしまうと、

その同性婚にも当然として「子を育てる」というオプションが前提として付随してきてしまうことになりはしないでしょうか。

同性婚の推進派においては「結婚を認めるが、子を設ける資格は除外」といったように部分的な権利を認めたり、現行の結婚制度の一部を切り離したうえで準用するような議論は全くと言っていいほど見られないので、私はこれを当然の帰結と考えています。

あまりに複雑な「家族」の様相

するとどうでしょう。

同性愛者異性愛者間の「差別」を解消するために同性婚を法制化するということは、

現状では結婚により「男女」による夫婦からなる家庭もしくは「男女+子」からなる家庭が生じるのに加えて、

同性婚法制化で「男男」あるいは「女女」、ならびに「男男+子」あるい「女女+子」という家庭が生じることになります。

さて、たとえ中心的でなく周辺的であっても結婚に子育てという機能が付随するということに異論がないのであれば、

本当ならこの「男男+子」あるい「女女+子」という家庭が生じる可能性とその影響について、当然慎重な議論がなされるべきなのです。

(推進派の間ではそれは全く聞かれないか、あるいは「異性愛者カップルと同じように子育てできる」と強弁するのみです。)

実際にはこの複雑な問題には、現在予見されているだけでも以下の三つの可能性を含んでいます。
 

(1)養子を迎える
(2)ゲイカップルのために代理母が出産
(3)レズビアンカップルのために第三者男性が精子を提供、カップルのうちどちらかが出産

 

上記、(1)について果たして子の福祉にかなっているのか、という議論があるのはもちろんのこと、(2)(3)には大いに問題を含んでいます。

いま思いつくだけでも、(2)は発展途上国の代理母候補に搾取的扱いをしたり、「生まれた子が障害児だと判明した途端引き取りを拒否する」といった例もありますし、

(3)に至っては、高学歴や高身長の精子提供者に人気が集中し、結果米国などでは同一提供者の生物学的子が数十人に達するといったケースもあります。

しかし、ここで特筆すべきなのは、同性婚推進派においてはこういったことをまともに取り上げる機運は全く見られないどころか、

むしろ同性婚法制化により生じうる潜在的問題について「全くの無関心」と形容したほうがいいくらいです。

憶測が過ぎるかも知れませんが、あたかも「同性婚が法制化すればその後についてはどうでもよい(あるいはなんとでもなる)」と言いたいかのようです。

しかし、これらの問題をよく眺めてみるとある種不気味な様相が浮かび上がります。

「断絶婚」-文明の退行

上記の(1)はともかく、(2)と(3)の現実化を想定すると、これらは「親のいない不幸な子を救う」といった大義名分なく子を生物学的ルーツから最初から断絶させるばかりか、

(2)においては出産した女性を家庭における母親の地位からはもちろん、本来ならばそれに伴って分与される財産権からも引き離しますし、

(3)においては「社会的強者」の遺伝子だけが幅広く頒布される懸念を伴うことになります。

現代の異性婚を前提とするなら、もし男性が婚姻を通じて女性に自分の子を産んで欲しいと望むなら、扶助責任を伴う長期的コミットメントと、自らが成す財産の共有や死後の相続なども含まれることになりますが、

対称的に、(2)(3)においては、(2)については女性は男性の遺伝子保存のための出産行為をワンオフで担当し、以後は切り離されるし、

(3)については、女性たちのほうからわざわざ「優良遺伝子」を求める一方で、その持ち主に関してはなんらの扶助義務も責任も追及されません。

で、私はこの(2)の様相を見ると、脳裏に去来するものがあります。

それは「古代ローマ社会」です。

エペソ書5章22~の夫婦の教えが説教されるときよく背景情報として持ち出されることがあります。

1世紀のローマ社会では「夫婦」というものは現代考えられているものと全く違い、妻は子を産み育てる機能のみを担当し、夫自身はもっぱら別に愛人を囲っているのが通例だったのだそうです。

また同性愛も広く行われていました。ですので、ロマンティックな意味での「性愛」と、子を産み育てる機能は「完全に別物」だったわけです。

つまり、これって「性愛」と「生殖・出産育児」を完全に分断した「断絶婚」とでもいうべきものです。

エペソ書でのパウロの教えは、当時のそんなローマ社会のありようへの「異議」だったというわけです。

現代の同性婚論者はそんなことは意識していないとは思いますが、

彼らの言う通り同性婚を法制化したら、当然次にはこういった風習が出てくることになります。あるいは、既に少数ながら存在しているそういった風習に対する「社会的認知」を求めてくることは想像に難くないことです。

また、(3)の様相については、もう言うまでもないですが、封建社会では強い権力を持つ男性が、正室側室はたまた愛人を通じて、何十人もの子を設けることは珍しくなかったことです。

それで、「精子提供を受ける」という大義名分のもと、わざわざ女性たちのほうから、一部男性の「自分の遺伝子を世間に広く頒布したい」という欲望を満たしてあげるような行動をとるわけです。

こうなったらもはや文明の退行にしか見えません。

結婚制度によって、誰かが不当に搾取されたり、著しい不平等が生じるのを防いでいたのに、これでは時代が逆戻りです。

しかし、何度も繰り返しますが、今まで同性婚推進論者の中でこういった可能性を真剣に考慮している人たちを私は一度も見たことがありません。

「パッケージをバラす」

前出の木村氏は、ハフポストの記事でこんな発言もしておられました。
 

https://www.huffingtonpost.jp/soushi-matsuoka/same-sex-marriage-event_a_23531231/

 

「法律婚のパッケージはどんどんバラしていって、婚姻届けを出すときに『夫婦同氏×、貞操義務×、養育義務〇、共同親権〇、相続分設定〇』みたいに、お互いに議論してチェックを入れて、それぞれのカップルにふさわしい婚姻契約を作り上げるようにするのが理想でしょう」

「パッケージをバラす」?ずいぶんとまたコンシューマリスティックなお考えですが(笑)

それはともかく、「貞操義務のない婚姻」というのが存在するとしたら、それは「子を持たない」ことを前提にしないと、さすがにマズいでしょう。

(というより、貞操義務がなくてしかも共同親権なんて、子が両親の間で引き裂かれるってのがデフォルトに見えちゃうんですが...)

しかし、木村氏が「パッケージをバラせる」婚姻制度の提唱とともに、かかる制度の潜在的悪影響やその対策にも考察を加えているということは寡聞にして聞きません。


またそもそも、この種の議論の中で「貞操義務」を軽視する意見は、実は木村氏に特有のものではないのです。

同性婚やあるいはそれに準ずるパートナーシップ制度を認める際に、「そもそも一夫一妻的な一夫一夫、あるいは一妻一妻制的制度にこだわるのはおかしいのではないか」という意見も実際にあるのです。

 

https://ameblo.jp/tfjblog/entry-12520902138.html

 

過去記事より:「オープンリーゲイ牧師」、平良愛香師の発言

「セクシュアル・マイノリティにかぎらず、日本には結婚して一人前とするようなパートナー絶対主義が存在すると思うんです。同性パートナーシップ条例についても、『パートナーシップを大切にする同性愛者だけを尊重する』というようなことになりはしないか」

この意味するところは『パートナーシップを大切にしない同性愛者』、つまり『パートナーを頻繁に変える、一度に複数と関係する』といった習癖を持つ同性愛者も尊重されるようにすべき、ということでしょうか?
 

https://ameblo.jp/tfjblog/entry-12520902170.html


過去記事より:レズビアンの堀江有里牧師は、論文で、同性パートナーシップ制度について、「1:1のモノガミーでない関係を排除してしまう」ので、性的マイノリティの立場からは疑問視されうるという可能性を示唆している。

そうすると、考えさせられてしまうのは、「この人たちはいったいぜんたいどんな婚姻制度を作りたいと思っているのか?」ということです。

少なくとも、貞操義務のあるモノガミー的関係の軽視は、子の養育とは到底相いれない考え方です。少なくとも、多くの人はそう思われると私は考えていますし、読者の皆さんもそこは同意いただけると思います。

しかし、海外に目を転じてみると、物事は必ずしもそういう風には進んでいないようです。

なんとなんと「私達三人の『トロウップル』?で立派に子を育ててま~す」的な例も、既に成立しているのです。
 

https://www.news.com.au/lifestyle/parenting/babies/gay-poly-throuple-makes-history-lists-three-dads-on-birth-certificate/news-story/20009b6a5840e4f0b94e4122d3faadf8

 

こうなると、もう「『同性婚法制化後』の婚姻制度ていったい何なんだろう?」という疑問に行き当たるしかありません。

異性婚であり、なおかつ自然生殖で子を産み育てるということを前提とするなら、生まれて来る子の生物学的両親は父親母親以外にありえないのだから、その二人の間の貞操義務を厳しく守らせるというのも、ごく単純に筋が通る話です。

しかし、同姓婚が認められ、なおかつ二人が三人になったら、四人、五人、あるいはそれ以上のパートナーシップを禁じる理由なんてどこにもなくなります。そうすれば「貞操義務ってそもそもなんだっけ?」てことになるのは目に見えた話です。

パート2に続きます。