2019年8月に、難病から腎不全となりました。

 はじめまして(*´ω`)

 2019年11月現在はGFR33

 タンパク質30gの食事制限で腎臓を守る生活しています。

 

 このブログは、難病が発覚するまでの経過を、

 思い出しながら綴っています。

 

 

 

昨年、米寿を迎えた実家の父。

 

実の父ではなく

私が中学の時に母が再婚した相手ですが、

もう長い年月を家族として過ごした人です。

 

ここ何年かは、寝たきりではないものの一日中ほぼ自室で過ごし、

庭にすら出ることはまれという生活でした。

 

優しいのですが、

非常に頑固で融通の利かない性格の父。

 

かねてから

病院には行かない!と宣言していて

日ごろのケアは訪問診療。

 

昨年夏にはかなり弱ってきて、

家で点滴や酸素吸入をしていましたが、

高齢の母が一人で介護するのも大変。

 

正直、入院してくれたほうが楽なのにね・・・

 

「容態が悪くなっても絶対に救急車を呼ばないでくれ」

とかたくなに言うので、

勝手にしろ~((+_+))って思ってました。

 

往診の医師からは

「気付いたら息してなかった、となった時は、救急車は呼ぶな」

と言われてました。(警察沙汰になるので)

 

8月のある夜、意識もうろう状態だと母から連絡がきた。

ご希望通り、このまま死なせてあげればいいやん?

って意見もありましたが・・・

いざとなったら放っとけなくて救急車を呼び、

市立病院に入院。

肺炎で危険な状態でした。

 

意識が戻った時、

救急車を呼んだことを怒るかもと思い、

「病院に来てよかったやろ?」と聞いてみたら、

涙ぐみながらウンウンと頷いてました(;'∀')

 

常々、いつ死んでもいい、なんて言っててもやはり人間は、、、

いざとなったら生きたいんだな。

と、冷ややかに思ったことを覚えています。

 

実家近くの病院では

色んな対応ができないため、

妹と私が住んでいる地域の病院に転院。

二人で週に何度か通いながら、

一人になってしまった実家の母もフォローするという

超多忙な生活が数か月続きました。

 

父の容態が落ち着いてきて

療養型の病院に転院しなければならないことになり、

病院探しに頭を痛めている最中に、

父の容態が急変。

 

亡くなったのは、今年の1月のことでした。