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奈良豆比古神社の御朱印
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鳥居
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境内の石標
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本殿

 この日、御詠歌の御朱印をいただきたいと思い午前中に般若寺を訪ねる予定をしていましたが、その前に先日、翁舞が催行された奈良豆比古神社にお詣りしたいと思い訪ねました。 

 こちらの神社をお詣りするのは、この日が初めてでした。 
 境内で木村芳治神主とお会いして、御朱印を書いていただきましたが隣接する資料館で奈良国立博物館から里帰りしている「能・狂言面」20面が、この日まで展示されている事を教えていただき、そちらも観覧させてもらいました。 

 資料館には奈良豆比古神社奉賛会の松岡会長がおられて色々説明をしていただきながら観覧させてもらいましたが、面では狐の狂言面が素晴らしいなと思いました。 
 また元明天皇陵と元正天皇陵の幕末に描かれた絵図も展示されていて興味深く拝見しました。 
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日張山 青蓮寺「開山中将法如尼」の御朱印
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本堂
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阿弥陀堂

 宇太水分神社を後にして次に向かったのは日張山(ひばりやま)青蓮寺です。 

 私が、このお寺の名前を初めて知ったのは當麻寺の練供養が行われた今年5月14日、石光寺で染井住職に御朱印を書いていただいた時でした。 

 その日は石光寺の前に徳融寺、誕生寺の御朱印をいただいていましたが、染井住職から中将姫ゆかりの寺巡りをするなら宇陀市にある尼寺、日張山青蓮寺は外せないと教えていただきました。 

 その後、地図で場所を確認しましたが、榛原駅からは、かなり距離があり二の足を踏んでいました。 

 しかし同じ方向で宇太水分神社もお詣り出来る事を先般知り、思い切ってお詣りさせてもらおうと決心して、この日の参拝になりました。 

 庫裡に声を掛けさせてもらい住職の森本順孝尼に御朱印を書いていただき、その後で本堂に安置されている中将法如の像をお詣りさせてもらいました。 

 奈良時代、右大臣藤原豊成公の息女に生まれた中将姫は継母の讒言により、この山に配流されたが、家臣松井嘉藤太に助けられて、この地に草庵を営み念仏三昧の生活を送られたが、この地に狩りに来られた父君と再会して都に戻り、その後、菩提の志止みがたく遂に當麻寺に入り出家剃髪の身となり法如尼と名乗られた事や、その後、再び、この山に登り、一宇の堂を建立して、自らの影像と嘉藤太夫婦の形像を手みずから刻み安置して、日張山青蓮寺と名付け永く尼主の道場とされた由緒ある山寺である事が境内の案内看板に書かれていました。 

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飛鳥大仏(部分)
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飛鳥寺略縁起(栞より)


 かめバスを使って、次に訪ねたのは飛鳥寺でした。

 前回は境内散策だけで済ませましたが、最近、飛鳥大仏の変遷に興味があるので、この日は本堂の拝観をさせてもらいました。 

 10月5日のブログ「久しぶりの飛鳥寺」に書かせてもらいましたが、飛鳥寺が仁和三年(887)に火災に遭った事を記しているのは、お寺の栞だけだったので、その出典が気になっていましたが、昭和61年に飛鳥資料館から発行された「飛鳥寺」(飛鳥資料館図録第15冊)により「本元興寺縁起」(大日本仏教全書所収)という近世の縁起に記載がある事が分かりました。 

 その一部を紹介させてもらいます。 


 太子建立の最初。此寺三百年後必火災あらんと未来を記し給へり。令言たかはす。仁和三年十二月晦日焼失す。天災なりと云傳へし。其後再興ありしか、いつの比よりか衰破して。本尊のみ残れり。推古十三年乙丑異國より来朝せし。鞍作鳥佛師に仰て。金銅丈六釈迦の像を作る。是日本大佛殿のはしめにて。其銅像今にあり。宗旨は眞言。いにしへは境内方二十餘町ありし。されともわつかのこりて今は草庵の一坊あり。
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 この日は午後からの特別拝観で聖霊院の国宝、聖徳太子像も拝観出来るようになっていましたので聖徳太子関連の御朱印で他に書かれるものがないか受付の方にお尋ねした所、普段はあまり書かれない裏メニューの「唯佛是真」がある事を教えていただいたので、お願いして書いていただきました。

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中表紙

 小林剛氏の著書「日本彫刻史」の中の興福寺の十大弟子と八部衆像が光明皇后により建立された西金堂の当初のものではなく、治承四年の平家の焼き討ちで当初の像が焼失した後、額安寺から移入されたものだと主張する論説は、図書情報館で、この本を閲覧した時にコピーを取り、その要旨を紹介させてもらいましたが、先日、この本を奈良の古書店で見つけ、本の状態が良かったので思い切って購入しました。

 図書情報館で閲覧した本には昭和22年12月25日に発行されたという奥付がありましたが、私が購入した本には奥付がありませんでした。 

 最初に昭和21年11月10日の日付で小林氏による自序が載せられていますが、そこには、「この出版に関しては薬師寺の高田好胤師や養徳社の上村六郎先生、庄野誠一氏などの並々ならぬ御厚意を賜った。併せて茲に感謝の意を表して置きたい」と書かれています。

 文面から後のお二人は養徳社という出版社の方と思われ、その上に名前が一人だけ載せられている高田好胤氏の尽力が大きかった事は間違いないように思われます。 

 この当時、高田好胤氏は、まだ副住職にもなっておられませんが、戦後まもない、この時期に、小林氏が戦前に発表された論文の集大成とでもいうべき大著の発行に尽力され実現させたという事に、この方の凄さを改めて感じました。 

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「興福寺由来記」西金堂の記事(部分)
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多聞天像(重文、奈良国立博物館蔵)
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広目天像(重文、興福寺蔵)
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増長天像(重文、奈良国立博物館蔵)
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持国天像(重文、MIHO MUSEUM蔵)

 「興福寺由来記」は幕末に成立した書物ですが「興福寺濫觴記」同様、西金堂の十大弟子像と八部衆像が額安寺から移入された事を記し、その貞永元年(1232)の彩色修補の期間、関わった人物の名前を詳細に記しているので「興福寺濫觴記」よりも史料的価値は高いものだと思います。 

 その西金堂の条に、四天王像の事が記されていますが、長安寺という寺から移入されたもので治承年間(1177~1180)に春日大仏師定慶によって制作された事を記す古記が有った事が記されています。 

 その制作年代、五尺という像高から、興福寺伝来の四天王像で該当するのは、現在、興福寺に一躰のみ残り、二躰は奈良国立博物館の所蔵に、もう一躰は広島耕山寺からMIHO MUSEUMの所蔵に変わった一具の四天王像しか考えられません。 

 なら仏像館では入口すぐの左右に多聞天像と広目天像が展示されています。

 この一具の四天王像と像容が一致するものが「興福寺曼荼羅図」に見つからないのは、この四天王像が治承の兵火の後、興福寺で旧像に基づいて再興されたものではなく他の寺から移入されたものだからと考えられます。 

 ここで注目したいのは鎌倉時代の興福寺では西金堂の四天王像を自力で再興する力も無かったという事です。 

 西金堂の仏像に関しては、治承の兵火で唯一救い出された記録のある十一面観音像は一番最初に西金堂に戻された記録が有り、本尊の釈迦如来像は「興福寺濫觴記」によると建久年間(1190~1199)に春日大仏師運慶によって、ようやく造立され、金剛力士像も同じく建久年間に春日大仏師定慶によって造立されたようですが、その後の再興は遅々として進まなかったようで、本尊脇侍の薬王薬上菩薩の造立は建仁二年(1202)です。 

 この後、どの像が再興されたかは明らかで有りませんが、恐らく当初の計画では梵天帝釈天、四天王、十大弟子、八部衆の順で考えていたと思います。 

 しかし、四天王像を再興する財力が無かったために、それに代わるものとして小型の天燈鬼、竜燈鬼の二躰が造られたのではないかと私は想像しています。 

 従って、長安寺の四天王像が西金堂に移入されたのは、この二躰の像が造立された建保三年(1215)以降だと考えています。 

 そのように建物の再建は早く完成しながら、そこに安置する仏像の再興には苦慮していた状態が長く続いた後で、貞永元年(1232)に額安寺から十大弟子像、八部衆像を移入し彩色修補する事によって西金堂は、ようやく旧態の安置状態に戻ったと私は想像しています。 
 上原真人氏の「額田寺出土瓦の再検討」という論文を読むと、額安寺近辺から法隆寺式軒瓦が多く出土しているので七世紀末から八世紀初めにはかなり寺観が整えられたと考えられるようです。 

 しかし「額田寺伽藍並条里図」に描かれたように、額田寺(額安寺)の中心伽藍が条里区画に従っているならば、その伽藍計画自体が八世紀に下降し、七世紀末の法隆寺式軒瓦を主体的に葺いた堂が解体されて新たな計画のもとに額田寺の伽藍が成立したと考えざるを得ないと述べておられます。 

 八世紀半ば、そのような再整備で新たに堂舎が建立された時期に、十大弟子像と八部衆像が造られたと想像しています。

 また、その像容については「興福寺曼荼羅図」に描かれた中金堂西の間と西金堂の阿修羅像が炎髪であるのに対して、現存の阿修羅像は結髪で法隆寺五重塔の阿修羅像に近い表現である事から、瓦だけでなく造仏に関しても法隆寺の伽藍再興に携わった集団あるいは、その後継者の関与が考えられるように思います。

 「大和額安寺別當職相傳次第」という文書によると、永承五年(1050)、宗岡仲子という人物が額安寺の別当に就任し、それ以降、鎌倉時代の嘉元二年(1304)まで宗岡氏の一族によって別当職が継承されています。

 宗岡氏の前には額田部氏の別の一族が別当職を継承していたと思われますが、何かの理由で宗岡氏に交代したと考えられます。 
 恐らく宗岡氏の前に別当職を継承していた一族に関する系譜が存在していたと思われますが、それは宗岡氏によって破棄され、寺の由緒を高めるために道慈を開基とする伝承が作られたと考えています。 

 この宗岡氏の時代に額安寺が興福寺の末寺として扱われていた事が長寛二年(1164)の文書などで分かります。 

 前に触れましたが、平安時代のある時期、額安寺の八部衆像が興福寺の西金堂に安置された事が有りました。 

 その事は大江親通が嘉承元年(1106)に南都を巡礼した時の記録「七大寺日記」に記されているので「興福寺曼荼羅図」の原本の成立を寛治七年(1093)と考えると、その間に移座された事になります。 

 また、大江親通の保延六年(1140)の南都再巡礼の時の記録「七大寺巡礼私記」の記載から、この像を安置してから毎年、寺内で闘乱が有ったので長承年間(1132~1134)に額安寺に返還した事が分かり、最短で考えても26年、最長では41年間、西金堂に安置されていた事になります。 

 額安寺では宗岡氏の尋智が寛治四年(1090)に父親から別当を引き継ぎ、保延四年(1138)に息子に譲っているので、その在任期間の出来事になります。 

 西金堂に移座された理由は不明ですが「七大寺日記」に高名な像であると明示されているので、その像容の素晴らしさが宣伝されていて、京から南都を訪ねた皇族や貴族が、西金堂に伝来する当初からの像と比較して拝する事が出来るように寄託されたのではないかと想像しています。 

 ただ、それほど長期の寄託になるとは想定していなかったのが、なかなか返還してもらえないので、興福寺側が納得する理由を作り上げて返還してもらったというのが真相ではないかと思っています。 

 本来、別々の寺に安置されていた八部衆像が縁あって西金堂で出会い、共に、そこで過ごし額安寺の像は本来の場所に戻る事になったわけですが、それが、二組の八部衆像にとっては永遠の別れになり、約100年後には、額安寺の八部衆像が西金堂当初の像の身代わりとなって西金堂に安置される運命になるとは、この時の移座に関与した誰もが想像しなかった事だと思います。 

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書院
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書院
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書院
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書院から見た庭

 昨日の興福院では本堂拝観の後、個人では拝観出来ない書院も観せていただく事が出来ました。
 こちらのお寺は何度も拝観させてもらっていますが初めて、御院主とお会い出来て言葉を交わす事が出来た上に、大好きなご本尊の写真も撮らせていただけ、前から気になっていた書院の中も観せていただけて、とても充実した思い出に残る時間を過ごさせてもらいました。 

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本堂と石段
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境内
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日野西御院主
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 今日は、昨年12月2日に「奈良大和路 冬のイベントガイド」という記事で紹介させてもらった奈良交通定期観光バスの「静寂の尼僧寺院と正暦寺」コースに参加してきました。 

 同じコースは後三日、組まれていますが全て満席になり締め切ったという事です。

 今日もバス二台で約60名の参加という盛況ぶりでした。 

 まず訪ねたのは、佐保川西町にある尼寺、興福院(こんぶいん)でした。 

 昨年、個人的に予約を入れて久しぶりに訪ねたお寺です。 

 これまで私が拝観した時とは違い、今日は、日野西御院主が本堂で待つ参加者の前にお越しくださり、ご挨拶していただいた後、御院主の先導で南無阿弥陀仏を十回唱えさせてもらいました。 

 その後、御院主に失礼ながらお歳を尋ねた所、92歳との事で、とてもお元気なので周りで驚きの声が上がり、御院主にあやかりたいと、ご院主と記念撮影される方も多々おられました。

 また、バスガイドさんが、ご本尊の撮影は駄目ですよねと尋ねられた時に、かまいませんよと言っていただき、他の方同様、私も何枚か写真を撮らせてもらいました。 

 以前、書かせてもらいましたが如来系の仏様では私は、こちらの阿弥陀如来が一番好きなのと、私の干支の守り本尊が阿弥陀如来なので自分で撮った写真を携帯の待ち受けに出来て、とても嬉しく思っています。
 現在、奈良国立博物館で開催中の特別展「解脱上人貞慶」に関する解説によると貞慶上人は治承四年(1180)、平重衡による平家焼き討ちの時には興福寺の修学僧であったと考えられます。 

 そこで私が一番ひっかかったのが「平家物語」の「奈良炎上」の記事でした。 

 市古貞次氏の校注・現代語訳の日本古典文学全集の「平家物語」の該当記事に目を通しましたが、それには12月28日の夜、平家の軍勢により民家に火をかけられ風が多くの寺に火を吹きかけた記述の後、次のような記述がされています。 


 恥を考え、名誉を惜しむくらいの者は、奈良坂で討死にし、または般若寺で討たれてしまっていた。 
 歩ける者は、吉野・十津川の方へ逃げて行く。歩く事もできぬ老僧や、すぐれた修学僧・稚児たち、女・子供は大仏殿の二階の上や、山階寺の中へ我先に逃げて行った。
 大仏殿の二階の上には、千余人が登って、敵があとからやって来るのを上げまいとして、梯子をはずしてしまっていた。そこへまっこうから猛火は押し寄せた。 
 わめき叫ぶ声は、焦熱・大焦熱・無間阿鼻地獄の炎の下の罪人の声もこれ以上ではあるまいと思われた。

(中略)


 法相宗・三論宗の法文・経典は全く一巻も残らない。わが国ではもちろん、天竺震旦でも、これほどの法滅があろうとは思われない。 

(中略)


 炎の中で焼け死んだ人人の数を記録したところ、大仏殿の二階の上には千七百余人、山階寺には八百余人、ある御堂には五百余人、またある御堂には三百余人というふうで、詳しく記録してみたら合計三千五百余人であった。 
 戦場で討たれた大衆は千余人、首を斬って少々は般若寺の門の前にさらし、少々は持たせて、大将軍重衡は上京なさる。 


 もし、この「平家物語」の記述が平家の焼き討ちの時の状況を正しく伝えているとすれば修学僧であった貞慶上人は山階寺(興福寺)の中に逃げこみ、そこで焼け死んだ八百余人の一人であったはずです。

 しかし、貞慶上人は焼け死にませんでした。 
 何故なら「平家物語」は、あくまでも物語(フィクション)であり、その時の状況を大げさに脚色して記述しているからだと私は思います。 

 では実際はどうだったかというと、その時の状況を伝える史料としては私は「山槐記」しかないと思いますが、それによると奈良坂の合戦で、(興福寺を初めとする僧兵は)久しく持ちこたえたが遂に敗北し、(その後)興福寺に籠もって合戦となったが、守る事が出来ずに衆徒(僧兵)は皆退散し、平家軍の官兵は所々の家に放火して、その間に東大寺と興福寺は灰燼となったというように記述されています。 

 この史料も伝聞によるものがあり全てが正確であるとは言えないと思いますが「平家物語」よりは真実を伝えていると思います。

 私が想像する平家焼き討ちの時の真実は奈良坂の防衛線が破られ、興福寺の僧兵が興福寺境内に退却した時、戦の戦力にならない僧侶や興福寺で働いていた人々は興福寺を出て他に移動させられたと考えています。 

 そして興福寺境内で平家軍の官兵と興福寺の僧兵の戦が繰り広げられたと思いますが平家軍の圧倒的な勝利に終わって僧兵が殆んどが討ち死にし或いは逃げ去った後、平家軍の官兵が民家に放火した火が興福寺境内にも迫ってきたので官兵も興福寺から退却したというのが真相ではないかと考えています。

 この時、火に包まれ始めた興福寺境内は無人に近い状態になったわけですが、興福寺西金堂衆の僧兵で平家軍の官兵から身を隠していた厳宗と蔵西の二人だけが境内に残っていて二人で力を合わせて命懸けで西金堂から十一面観音像だけを救い出し幸いにも厳宗の住まい(小房)は焼け残ったので、そこに避難したという事ではなかったかと思います。 

 治承四年の平家の焼き討ちの時、興福寺の安置仏のほとんどが失われたのは、興福寺境内が火に包まれた時に、それらを救出する事が出来る人が境内に残っていなかったからだと私は思っています。 

 救い出す人がいないのに西金堂の十人弟子像と八部衆像だけが無傷で救い出される事は不可能だと思います。 

 そのような検証がされずに、現存の十人弟子像と八部衆像が治承四年の平家焼き討ちの時に奇跡的に救出されたと主張する説が主流になっている事は残念だと思います。