「興福寺由来記」西金堂の記事(部分)
多聞天像(重文、奈良国立博物館蔵)
広目天像(重文、興福寺蔵)
増長天像(重文、奈良国立博物館蔵)
持国天像(重文、MIHO MUSEUM蔵)
「興福寺由来記」は幕末に成立した書物ですが「興福寺濫觴記」同様、西金堂の十大弟子像と八部衆像が額安寺から移入された事を記し、その貞永元年(1232)の彩色修補の期間、関わった人物の名前を詳細に記しているので「興福寺濫觴記」よりも史料的価値は高いものだと思います。
その西金堂の条に、四天王像の事が記されていますが、長安寺という寺から移入されたもので治承年間(1177~1180)に春日大仏師定慶によって制作された事を記す古記が有った事が記されています。
その制作年代、五尺という像高から、興福寺伝来の四天王像で該当するのは、現在、興福寺に一躰のみ残り、二躰は奈良国立博物館の所蔵に、もう一躰は広島耕山寺からMIHO MUSEUMの所蔵に変わった一具の四天王像しか考えられません。
なら仏像館では入口すぐの左右に多聞天像と広目天像が展示されています。
この一具の四天王像と像容が一致するものが「興福寺曼荼羅図」に見つからないのは、この四天王像が治承の兵火の後、興福寺で旧像に基づいて再興されたものではなく他の寺から移入されたものだからと考えられます。
ここで注目したいのは鎌倉時代の興福寺では西金堂の四天王像を自力で再興する力も無かったという事です。
西金堂の仏像に関しては、治承の兵火で唯一救い出された記録のある十一面観音像は一番最初に西金堂に戻された記録が有り、本尊の釈迦如来像は「興福寺濫觴記」によると建久年間(1190~1199)に春日大仏師運慶によって、ようやく造立され、金剛力士像も同じく建久年間に春日大仏師定慶によって造立されたようですが、その後の再興は遅々として進まなかったようで、本尊脇侍の薬王薬上菩薩の造立は建仁二年(1202)です。
この後、どの像が再興されたかは明らかで有りませんが、恐らく当初の計画では梵天帝釈天、四天王、十大弟子、八部衆の順で考えていたと思います。
しかし、四天王像を再興する財力が無かったために、それに代わるものとして小型の天燈鬼、竜燈鬼の二躰が造られたのではないかと私は想像しています。
従って、長安寺の四天王像が西金堂に移入されたのは、この二躰の像が造立された建保三年(1215)以降だと考えています。
そのように建物の再建は早く完成しながら、そこに安置する仏像の再興には苦慮していた状態が長く続いた後で、貞永元年(1232)に額安寺から十大弟子像、八部衆像を移入し彩色修補する事によって西金堂は、ようやく旧態の安置状態に戻ったと私は想像しています。