小林氏は、治承四年12月28日の平重衡の兵火によって、興福寺の堂塔がすべて灰燼に帰した際、十大弟子及び八部衆像が如何なる運命を辿ったかは本論争の最も中心となるべき箇所であるが、この事に関しては文献上、何等直接の記載あるものを見ないと述べられ、従って現存像の保存状態を常に考慮に入れつつ、当時の火災の状況並びに四囲の事情、遺品等の傍証による可能性を求めて、常識的な妥当性を批判するの他はないと述べられています。

 然るに安藤足立両氏が、この問題を比較的に簡略に取り扱われているのは遺憾であると述べられ、安藤氏の論文の「之を要するに十大弟子八部衆像が治承四年の兵火に焼失したという事については、何等の積極的確証なく、その論断はやや軽率の謗りを免れない」という部分を引用した上で、この場合、常に脳裏を離れないのは現存像否治承火災後における十大弟子及び八部衆像の状態、換言すれば、この治承の火災より救い出されたとするニ具の像は全く完備したもので、各像自体は元より、その台座までも、皆、原初のものを具備していたと思われるのであるから、それらが如何に軽量なりとは云え、十八躯の像が殆んど損傷もなく、無事に取り出されていると云う事に留意しなければならないと述べられています。 

 そして、改めて「玉葉」等に記された記述を引用され、少なくとも、只これだけの文献による記載を以てしても、この度に於ける興福寺の罹災が他の場合の火災などとは比較すべくもなく甚大であった事は想像しうると述べられ、その前後にあった興福寺の火災を紹介され、即ちこれらの火災は唯、寺中の或る部分の焼亡であり、又一部の争闘に過ぎなかったのであるから、治承の際に於ける如き興福寺一山が「官兵」を恐れ戦慄していた時とは、その火災に対する条件がかなり異なっているのを認めなければならないと述べられ、さればこそ、他の場合は本尊は元より随従或いは護法神の如き第ニ義第三義的な像まで救い出されているのに、治承の兵火に於いては、何物を差し置いても先ず第一に救出せねばならぬ筈の諸堂の重要な本尊像さえ一躰も救い得なかったものと考えると述べられています。 

 小林氏は、そのように推定する根拠として、火災から20日以上後の検知で、金堂釈迦眉間奉籠銀釈迦小像、東金堂後戸釈迦三尊像、西金堂十一面観音像が挙げられ、十一面観音像以外は、火災後に灰中から無残な姿で求められながら、尚、救出御仏として尊名を連ねている事は、とにかく、当時、興福寺中の大部分の仏像が罹災していた事を推察せしむるに足るものと思われると述べておられます。

 それに続き、興福寺に伝えられている現存遺品を見ても、本寺在来のもので、確実に治承兵火より前の作例と推定出来るものは一つもなく、皆、治承後の作例ばかりであると述べられ、その中にあって、十大弟子及び八部衆像が比較的破損しやすい乾漆造でありながら、その台座までも取り揃えて、ニ具十八躯の像が完全に救い出された事は不審であると述べられ、足立氏が貞永元年(1232)の修理の記録を、治承の兵火で蒙った損傷に関するものと云われた事につき、この修理が絵仏師及び薄師等のみによるものである事は、治承災害による修理としては不適当に思われると述べられています。

 そして「尊像之録」の記事を引用した上で、現存像の状態からも、唯その彩色のみが塗り直された事を推定せしめ、又、治承後の復興西金堂に於いて最も遅い造像と思われる建保三年(1215)の天燈鬼龍燈鬼像より更に十七年後の、この修補は、治承罹災に対する再興として余りに遅きに失するものと思われ、その修補程度と時期から、これを治承当時から本寺に存在したものとするよりも、貞永頃に他から移したものと考える方が妥当な様に思われると述べておられます。