次に十大弟子像と八部衆像の丈量(像高)について、小林氏が「扶桑略記」に記載されている創建当初の十大弟子像と八部衆像が共に高六尺とあるのに対し、現存の十大弟子像が像高四尺八九寸、八部衆像が像高約五尺内外で「興福寺濫觴記」等の丈量にほぼ近い事を指摘されて、それが当初像ではない事の理由の一つと挙げられた事に、安藤足立両氏から、その「六尺」という丈量を概数として、現存像五尺内外の実測値との差異を否定する反論が出された事に対する反論が述べられています。 

 問題になる「扶桑略記」の承暦二年(1078)正月の西金堂供養の記事については、「彩色六尺釈迦十大弟子像各一躰、同八部衆像各一躰」という記載の後に「彩色五尺六天像」という記載が有る事を指摘され、十大弟子及び八部衆像に附された「彩色六尺」との説明によって、その丈量が知られ得るのは極めて注意すべき事であると述べられ、「扶桑略記」の「六尺」が概数である事は充分に承知しているが、すぐ後に六天像の説明として「彩色五尺」と記載されている事を見逃す事は出来ないと述べられています。
 本尊丈六釈迦如来像に対して、その随従十大弟子像等が約六尺である場合に、護法天部像等が、それよりも、少々小さく五尺位に造られたであろう事は理の当然であるが、この両丈量の併記は互いに、その実数値を乱す性質のものではなく、「扶桑略記」に六天像、即ち梵天帝釈天及び四天王像が「五尺」と記されている以上、十大弟子及び八部衆像が高さ五尺ではなく「六尺」であった事は断言出来ると述べられ、註において「七大寺巡礼私記」にも「十大弟子像高各六尺許」と記されている事も紹介され、目測でも約六尺位であった事が知られると述べておられます。