Romantique No.596『One Love~ボブ・マーリーに愛を込めて』 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

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僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

 

 

             Adieu Romantique No.596

       『One Love~ボブ・マーリーに愛を込めて』

                            
5月11日、今日はボブ・マーリーの命日。なのでずっと書いている「珈琲 & 音楽 in 喫茶店」の記事はひと休み。そしていつもより早く、前回の記事からの間隔を短くしてこの記事をUPさせた。

 

過去の僕のブログで。そう。大ヒットしたクィーンの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観終わった後の2019年1月のブログで、僕はこんなことを書いている。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』を観た今、次に創られるべきはボブ・マーリーの伝記映画だと断言したい。ミュージシャン、ソングライターとしてのボブ・マーリーの豊かな才能、ボーカリストしては唯一無二。そして当時、ほとんど知られていなかったレゲエという音楽を世界中に広めることができた推進力と、いくつかの奇跡を呼び込む運、カリスマ性やオーラ。死後40年近く経過しているにも関わらず(今では43年目になる)、現時点でもその影響力は絶大。ボブ・マーリーのすべてが、あまりにも魅力的であり、今こそ、彼の伝記映画が創られることを渇望する(いったい誰に向かって言っているのかなぁzzz)と書きつつ、何気なくネットを見ていたら、何と、昨年の夏頃に(それは2018年の話)ボブ・マーリーの伝記映画の制作が発表されていた。
 
結局は僕の妄想が現実に進んでいたという、ボブ・マーリーの自伝映画(制作がとん挫する場合もあるし、フタを開ければ自伝映画ではなくドキュメンタリーかもしれないけど)。まだまだ油断は禁物だ。しかも。この映画の制作の中心にいるのはボブとリタの息子であり、シンガーでもあるジギー・マーリーなのだそうだ。ジギーが絡んでいるなら大丈夫だとは思うが、くれぐれもボブの名曲の数々を慎重に(かつ大胆に)扱ってほしいな、と思う。

 

実のところ。映画のタイトルはもう決まっている(僕の勝手な妄想ですけどねにやり)。『One Love~People Get Ready』。『ボヘミアン・ラプソディ』の音の編集力が生み出した、映像と音楽が見事にシンクロする、あの感じを(音楽映画『ベイビー・ドライバー』以後を感じさせる編集だと思った)、ボブ・マーリーの音楽で体感できたら。しかも、その音がいい感じでDub処理されていたら。そして、その音がボブ・マーリーのストーリーと重なってきたら、どんなに幸福なのだろうか。

 

そのようなことを僕は妄想したのだった。

 

前置きが長くなってしまいました。

 

🎦時は流れて。ずっと待ち望んだボブ・マーリーの伝記映画『One Love』が今年、遂に公開される(タイトルはほぼ僕の妄想通りだ。プロデューサーはやはりジギー・マーリーリタ・マーリーもいろんなところで協力したはず)。公開はマーリーの命日の5月11日に合わせて公開される予定だったはずだけど(多分ね)、ロードショーは金曜日からという慣習があるため5/17(金)から公開されることに。いろんな感慨を抱きながら。待ち望んだその時がついにやって来る。

🎦その予告編を。主役を演じるキングズリー・ベン=アディルよりもボブ本人の方が遥かにカッコいいのは間違いないけど(そんなの当たり前だ)、そこは敢えて言う必要はない。マーリーが全身全霊で放った「Positive Vibration」、或いは「One Love , One Heart」(ジョンとヨーコ「Love & Peace」を重ね合わせたり)をどんな風に感じ取れるのか。いやぁ、ほんとうに楽しみで仕方ないや笑い泣き

 

そのようなことで。映画の予習ということも含めて、ボブ・マーリーの偉大なる軌跡を過去の記事に加筆し、Re-Editしながら、簡単にざぁーと紹介してみることに。

 

 ボブ・マーリー【Bob Marley】こと、ロバート・ネスタ・マーリーは、1945年にジャマイカで生まれる。父親がジャマイカ最大の建設会社を経営していたため裕福な暮らしをしていたらしいけど、ボブが10歳の時に父親が亡くなって以後、暮らしは一転、母と共にキングストンのスラム、トレンチタウンに移り住むことになる。間もなく、盟友バニー・ウェイラーピーター・トッシュと知り合い、音楽活動をスタート。1962年に『Judge Not』でレコードデビュー。レゲエの前身であるスカのコーラスグループとしてティーンネイジャーズウェリング・ルードボーイズウェイリング・ウェイラーズを経てザ・ウェイラーズとして活動。1970年にはキングストンに自らのレーベルであり、スタジオでもある「タフ・ゴング」【Tuff Gong】(ボブのニックネームだ)を設立した。

 

音譜ボブは当時、16歳。キングストンのフェデラル・スタジオレスリー・コングのプロデュースによって録音されたデビュー曲『Judge Not』を。

 

そして1972年には。クリス・ブラックウェルが主宰した「アイランド・レーベル」と契約したことで(音楽的にはクリス・ブラックウェルからさまざまな注文が付けられていたようだけど、この契約がなければボブの人生と、レゲエの行方はどうなったのかは分からない、という意味で奇跡が起こったのである)、世界への扉が開かれることになる。デビューアルバムは傑作『キャッチ・ア・ファイアー』。続いて『バーニン』をリリースした後、バニー・ウェイラーとピーター・トッシュが脱退し、グループ名がボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとなる。

 

音譜アイランドから1973年にリリースされた新生ザ・ウェイラーズのデビュー・アルバム『キャッチ・ア・ファイアー』。このアルバムと次のアルバム『バーニン』には、ボブの盟友ピーター・トッシュバニー・ウェイラーがまだ在籍していたので、その後のアルバムとは異なる特別な緊張感が張り詰めている。まぁ、当時のレゲエと言えば、ラスタファリアンのルーツ・レゲエが主流であり、それはレベル・ミュージックでもあったので、それまでのROCKにはないヤバさと、火傷しそうなほどの熱があった。

 

因みに。このアルバムはバンドが録音した音源にアイランド・レコードの創設者クリス・ブラックウェルがアメリカのミュージシャンを使ってROCK寄りにオーヴァー・ダビングしている(それでも十分に素晴らしいし、本人たちもそれを好意的に受け止めていたという)。だけど。それから30年近くが経過し、2001年に遂に日の目を見ることになった、もともとのジャマイカ・オリジナル・バージョンの凄さと言ったら。それを聴いてしまった後、もはや最初のバージョンのアルバムは聴く必要がなくなってしまった。

 

 音譜曲はジャマイカン・オリジナル・バージョンで『Slave Driver』

 

📷️バニー・ウェイラーピーター・トッシュが在籍していた頃のザ・ウェイラーズ。スカやロックスタディを歌っていた頃と違って戦闘的な緊張感が漲っている。

📷️『キャッチ・ア・ファイアー』と『バーニン』を発表した後、バニー・ウェイラーとピーター・トッシュが抜け、バンドはボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズとして活動することに。メンバーはギターとボーカルがボブ・マーリー。ドラムスのカールトンとベースのアストンによるバレット兄弟(1969年からウェイラーズに変則的に参加していた) 。 ギターのジュニア・マーヴィンアル・アンダーソン。キーボードはアール・ワイヤ・リンドタイロン・ダウニー。パーカッションはアルヴィン・パターソン。ボブの奥さんだったリタ・マーリーを中心にジュディ・モワットマーシャ・グリフィスによるアイ・スリーズがコーラスを担当した。写真は当時のボブとザ・ウェイラーズの面々。

 

🎦映画『One Love』でのボブ・マーリー(キングズリー・ベン=アディル)とザ・ウェイラーズが揃ったシーン。


ちょうどその頃、二つ目の奇跡が起きる。『バーニン』の中の1曲『アイ・ショット・ザ・シェリフ』エリック・クラプトンが1974年のアルバム『461オーシャン・ブールヴァード』の中でカヴァーし、ビルボードチャート1位に輝いた。このクラプトンのカヴァーを聴いてしまうと、クラプトンのはレゲエじゃなく、レゲエ風味のスワンプ・ロックであることが分かるし、レゲエはベースとドラムが肝であることがよーく分かる。良くも悪くもボブの曲とはまったく違うものだ。だけど、クラプトンのおかげでレゲエの扉は大きく開かれたことだけは確か。クラプトン様々だ。そのクラプトンによるカヴァーを。

 

音譜その勢いを得たボブ・マーリ&ザ・ウェイラーズ

1975年7月18日、ロンドン・ライシアム・シアターでの傑作ライヴ・アルバム『LIVE!』から皮肉にもクラプトンがカヴァーしたことがきっかけとなった、『I Shot The Sheriff』と、誰もこんな風には絶対に歌うことができないであろう名唱、そして名曲である『No Woman No Cry』を。このアルバムの衝撃によってレゲエは、そしてボブ・マーリーは世界中の音楽ファンに知られていくことに。

 

 

 

そして 1976年。ボブはプロデューサーのクランシー・エクルズらと共にジャマイカの政党、マイケル・マンリーが率いる人民国家党 (PNP) の政治キャンペーンに参加し、「政党の対立よりも混迷するジャマイカに微笑みを与えよう」という主旨の元、その年の12月に開催を予定していた「スマイル・ジャマイカ・コンサート」のリハーサル中、エドワード・シアガが率いるジャマイカ労働党 (JLP) との対立抗争に巻き込まれ、12月3日に銃で武装した6人の男に襲撃を受けマーリーは胸と腕を撃たれ負傷する。だけど二日後にコンサートに出演。約80,000人の聴衆に向かってマーリーは「このコンサートを開く事を二か月半前に決めた時、政治なんてなかったんだ!僕は人々の愛のためだけに演奏したかった」と言い、約90分の演奏をやりきった。そして演奏の最後には、服をめくり胸と腕の傷を指さして観客に見せつけその場を去ったという。翌日早朝、マーリーはジャマイカを発ちバハマに渡り、その後にはイギリスへの国外退避を余儀なくされる。

 

後にコンサートに出演した理由を尋ねられたとき、「この世界を悪くさせようとしてる奴らは休みなんか取っちゃいない。それなのに僕が休むなんて事ができるかい?」と語っている。

 

📷️1年間ほど暮らしたロンドンでは誰にも邪魔されることなく音楽だけに没頭し、2枚のアルバム「エクソダス」【Exodus】(1977)「カヤ」【Kaya】(1978)を制作、イギリスから世界へと「One Love」の精神を発信した。この写真はその頃に撮られたもの。ウェイラーズのベーシスト、アストン”ファミリーマン”バレットがファンにサインしてる。

 

そして1978年にはジャマイカに舞い戻り、4月22日にキングストンで「ワンラブ・ピース・コンサート」に出演する。このとき、コンサートを見に来ていたマイケル・マンリーエドワード・シアガの2人の党首をステージ上に招き、和解の握手をさせた。これこそが音楽が政治を超えた瞬間であり、三つめの奇跡となる。


蛇足であり、僕の妄想の継続に過ぎないけど、この「ワンラブ・ピース・コンサート」は未だ観ていないボブの伝記映画の中で、クィーンの映画『ボヘミアン・ラプソディ』のフィナーレを飾った「ライヴ・エイド」のシーンと同じように、メインシーンになるライヴだと言える。

 

その後1979年には、日本にも来てくれたし(この時のLiveにはもちろん僕も行く気満々だったけどチケットが取れなくて涙を呑んだえーん)、オーストラリア、ニュージーランドでのツアーを行った後、ラスタファリズム(レゲエをレゲエたらしめている宗教であり、精神の支柱でもある)の聖地、エチオピアをはじめとするアフリカの国々を訪問。このときの体験をもとにアルバム『サヴァイヴァル』を発表。1980年には西アフリカ、カンボジアの大統領の誕生日パーティーで演奏するなど、いろいろな意味でレゲエという音楽で世界を繋いだ。


だけどしかし。神に選ばれた者の宿命と言うべきか。悪性のメラノーマ(悪性黒色腫)を発症。医師からは手術を勧められるも、ボブは宗教的な理由でこれを拒否。やがて腫瘍は全身に転移し、手が付けられない状態にまで悪化して、1981年5月11日、ボブ・マーリーは36年の短いながらも、濃縮された人生を閉じるのである。

 

音譜それじゃあ。1977年に亡命先のイギリス・ロンドンで録音したアルバム『エクソダス』に収められた曲。今回の伝記映画のタイトルにもなった、平和を願うアンセム『One Love~People Get Ready』(People~は1965年にアメリカの偉大なるソウル・シンガー、カーティス・メイフィールドが在籍したインプレッションズが公民権運動を背景にヒットさせた曲のメロディを一部、引用している)を1984年リリースの12inchシングル・ヴァージョンで。

 

 

音譜続いてウェイリング・ウェイラーズ時代の、オーセンティックなスカ・ヴァージョンの『One Love』を。

📷️ウェイリング・ウェイラーズの頃の写真。左からバニー・ウェイラー、ボブ・マーリー、ピーター・トッシュの鉄壁のトリオ。

 

音譜『One Love』とのタイトル繋がりで。DUBにはあまり積極的ではなかった(の、かな?)ボブ・マーリーのDUBな1曲。ボブのキャリアの中で最も政治的な、1979年にリリースされたアルバム『サヴァイバル』に収められ、シングル・カットされた『One Drop』のB面『One Dub』

 

音譜そうは言いながら。1970年頃「アイランド」と契約する以前のザ・ウエイラーズが強力DUBオーガナイザー、リー・スクラッチ・ペリーのプロデュースのもと、アップセッターズとのセッションをまとめたアルバム『Springtime Anthropology』から『Naural Mystic』を。このアルバムもほんとイカしてるんだよな。

 

 📷️ボブ・マーリーの「One Love」が溢れるポートレイトをいくつか。

 
 📷️ほんと魅力的な顔、表情、雰囲気を持ってるよね。

📷️ラスタファリアンの彼らにとってガンジャ【Ganja】(=マリファナ)は必要不可欠なもの。ボブも陶酔してるよね(但し。日本では所持するだけで犯罪だということをお忘れなくイヒ)。
 📷️歌っている時のボブは神々しいほどに。

音譜ボブ・マーリーの音楽の魅力を大きく更新した、4枚組のセレクト・アルバム『Songs Of Freedom』から。めちゃくちゃSexyでロマンティークな曲『Mellow Mood』『Guava Jelly』を。

 


 

音譜1977年のアルバム『エクソダス』の中の、とてもロマンティークな曲『Waiting In Vain』

 

音譜『バビロン・バイ・バス』【Babylon By Bus】は、1978年のパリ、コペンハーゲン、ロンドン、アムステルダムでのLive音源からセレクトされたアナログ2枚組のLiveアルバム。個人的にはほんとによく聴いたアルバムだ。1975年の『Live !』のような張りつめた緊張感はないけれど、ゆったりとした、時折、DUBっぽく聴こえる演奏が最高に魅力的。ジュニア・マーヴィンのギターが少々、ロック的過ぎるのが気になるけど、バンドとして最良の形でまとまった、この時期ならではのLive盤だと思う。

音譜レゲエとアフリカン・ファンクが融合したようなスリリングな演奏がめちゃくちゃカッコいい『Exodus』

音譜このアルバムの中で一番、好きな曲『Stir It Up』

音譜最高に盛り上がる『Jamming』

 

音譜そして「下劣で幸福なき、すべての政治体制が破壊されるまで、世界中の人が平和の永続する、そんな夢がかなうその日まで闘いは続く」と歌い、「争いはもうたくさん。必要なのは愛だ」と歌われる曲『War / No More Trouble』。この曲を聴いていると。そう。ただシンプルに「戦争なんて要らない」と思う🖕。


音譜1983年当時、オリジナル・アルバムに未収録だった曲ばかりを集めた『コンフロンティション』【Confrontation】から、自らの死を意識して録音されたというボブ・マーリー生前最後のシングル『I Know』を。もはやレゲエであるとか、レゲエではない、なんていうことを遥かに超えて、違う次元に突き抜けようとする高揚感が素晴らしい。

 

 

📖ボブ・マーリーについて書かれた本を一冊。『十九歳の地図』で文壇にデビューし、『岬』『枯木灘』を書いた作家の中上健次は、アルバート・アイラーのジャズに心酔する一方で、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズが行った1980年のアメリカ公演中、シカゴでボブ・マーリーにインタヴューしている。その模様が収められたエッセイ集『アメリカ・アメリカ』。対談のあと、中上健二はボブに対してこんなことを書いている。

 

「しゃがれた声、年齢不詳。体からオーラが出ていたのをはっきりと眼にした気がする。彼は八○年代を招き寄せた霊媒として私の眼に映る」。

 

♪最後は。1980年にリリースされた最後のオリジナル・アルバムに収録された、ボブの音楽の集約とも言える名曲中の名曲『Redemption Song』をボブの弾き語りで。

 
 

一緒に歌ってくれないか

この自由の歌を

だって僕にはこれしかないから

 

自由を取り戻す歌

僕にはこれしかないから

 

自由を取り戻す歌

自由の歌

自由の歌

 


 

ボブ・マーリーが遺した、そのすべてには「愛」が溢れている。

 


それじゃぁ
この辺で。

アデュー・ロマンティークニコ