Adieu Romantique No.564『映画と映画音楽を語るときに僕の語ること』 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

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僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

 

 

                   Adieu Romantique No.564

   『映画と映画音楽について語るときに僕が語ること』

                           【懐かしの名画編④】

 

僕自身の映画的記憶を呼び覚ますように。断続的に書いているシリーズ記事映画と映画音楽について語るときに僕が語ること』その【想い出の名画編】の4回目。


📖まずは。(いつも都合よく)今、手元にある映画について書かれた一冊の本のことから。シリーズ1回目にPick Upしたのは村上春樹川本三郎「映画をめぐる冒険」、2回目は和田誠『シネマッド・ティー・パーティ』、3回目は植草甚一『映画はどんどん新しくなってゆく』だったけど。今回は東京大学の総長を務めたこともあるフランス文学者であり、文芸評論家であり、自らを「映画狂人」と語る映画批評家であり、思想家であり、小説家でもある、アカデミズムの極北、蓮實重彦【Shigehiko Hasumi】『映画の神話学』(この本のオリジナル版の表紙には[映画の神話学]としてしか読まれえぬことの制度的残酷さを希薄なる表層体験として虚構化する[蓮實重彦]の過激なる模倣と反復』と印刷されていて、ちくま学芸文庫の表紙には蓮實重彦「映画の神話学」を回避する』と印刷されている)。ワンセンテンスが極めて長く、簡単な話を難しい言葉を使ってより難解に、難解な話を文学的に表現し、さらに難しくしていくレトリックはある意味、曲芸の域であり、まさに氏ならでは(それこそが映画言語であり、それこそが映画評論であると言わんばかりに)。読んでいるうちにいったい何を読んでいるのか、それが何について語られているのか、よく分からなくなるという後味の悪さが快感になるというような類いの(違うかえー?)。

 
そういう風なことを書くと、氏の本がまったくつまらないように思われるかも知れないけど、そんなことはまったくなくって(当たり前だ。とにかく蓮實重彦なのだから)。実に興味深かったり、面白い考察もたくさんあるので、ある意味、とても刺激的。例えばこの『映画の神話学』の序文とも言うべき書き出しでは、「映画・この不在なるものの輝き」という見出しに続いて「われわれがふつう映画として信じているものは、実はその朧げなうしろ姿でしかないのだから、闇の中の一瞬の残像との間に無限大の深淵がある。映画のイメージのより総体的な把握のためにわれわれの前にあるのは、どこにも存在しない空間と誰ひとり経験したことのない時間ばかりだ」とあり、さらに本文の中では「映画とは、いわば不自由の同義語である。しかし、その不自由は、映画をとりまく状況の困難からくる社会的な不自由の映画の投影としてあるのではなく、もっぱら映画自身からくるものだ」とあって、ひねくれた僕なんかはすぐにこういったレトリックをいただいて「そして映画評論もまた、映画とは不自由の同義語であるとするなら、その映画の不自由を、或いは不自由な映画を語る映画評論の総体として映画評論自体もまた不自由の同義語であると言わざるえない」と続けてしまいたくなってくる。
 
📖まぁ、蓮實重彦が書いた映画に関することはこの本だけに限ったことじゃなく、他にも『映像の詩学』とか『映画 誘惑のエクリチュール』だとかタイトルだけでも十分に近寄り難いものや、全10巻にも及ぶ『映画狂人シリーズ』日本を代表する音楽家、武満徹との映画対談『シネマの快楽』淀川''サヨナラサヨナラ''長治を囲んだ山田宏一との映画対談『映画千夜一夜』山田宏一との対談『傷だらけの映画史 ウーファからハリウッドまで』ウーファ【UFA】とは1917~1945年までの間に数多くの作品を制作したドイツの映画会社のこと)などがある。まぁ、だけど。難し目のものから比較的読み易いものもひっくるめて。その根底には、「映画愛」が脈々と流れていることだけは決して忘れてはならない。
 

さて、と。ややこしい話は脇に置いて。

『映画と映画音楽について語るときに僕が語ること』について語っていくねイヒ

 

🎦まず初めは、映画史に燦然と輝く名作『ゴッドファーザー』【The Godfather】から。マリオ・プーゾォの原作を元にフランシス・フォード・コッポラ【Francis Ford Coppola】(もともとはセルジオ・レオーネを始めピーター・ボグダノヴィッチアーサー・ペンオットー・プレミンジャーにまでオファーがあったらしいけれど、ことごとく断られたという)が1971年から1990年まで実に20年間に渡って断続的に撮り続け(もちろんその間にコッポラは『地獄の黙示録』『ワン・フロム・ザ・ハート』『アウトサイダー』などの作品を撮っている)、3部作として完成させた。芸術的な作品ではないけど、エンターテイメントとして完璧な作品、と言っても問題はないだろう。
 
とにかく劇中に数多く登場する人物たちが多彩で面白過ぎて(と言うか、その登場人物の置かれた立場や登場人物同士のそれぞれの関係性を追い、推測し、登場人物それぞれの想いをイメージすることがこの映画の大きな魅力のひとつである)。ドン・ヴィトー・コルレオーネマイケル・コルレオーネ(次男)、ソニー・コルレオーネ(長男)、フレド・コルレオーネ(三男)とか、トム・ヘイゲン(ファミリーの参謀)、ルカ・ブラージ(ファミリーの用心棒)を始めクレメンザサルバトーレ・テシオ。敵対するファミリーのバルジーニソロッツォタッタリア、ビジネス界の大物モー・グリーンにドン・ヴィトーの寵愛を受けた人気歌手ジョニー・フォンテーン(実際に組織と繋がっていたと言われたフランク・シナトラがモデル)などなど。
 
そして主演俳優は、第1部にマーロン・ブランドアル・パチーノジェームズ・カーンジョン・カザールロバート・デュヴァルレニー・モンタナ(用心棒ルカを演じた、実際の組織の用心棒だった)、ダイアン・キートンタリア・シャイア(コッポラの実の妹)、歌手のモーガナ・キングアル・マルティーノらが名を連ね、劇中の洗礼式のシーンでは赤ん坊マイケル・フランシス・リッツィ役にコッポラの実の娘であり、後に映画作家となるソフィア・コッポラが出演。『PARTⅡ』(1974年公開)ではロバート・デ・ニーロが若き日のヴィトー・コルレオーネを演じ、『PARTⅢ』(1990年公開)ではアンディ・ガルシアメアリー・コルレオーネ役で再びソフィア・コッポラが主演した。
 
全編を通じて。それぞれのシーンが次のシーンのために撮られ、蓄積されてゆくような映画の重み、深み。光と影。憎悪と愛が時に詩的に、時に暴力的に綴られてゆく。
🎬️「コルレオーネ家の配役をめぐる争いは、コルレオーネ家がスクリーン上で繰り広げた争いよりも苛烈であった」という。ドン・ヴィトーの役は原作者のマリオ・プーゾォがマーロン・ブランド「あなたはゴッドファーザーの静かな力と皮肉を演じることができる唯一の俳優である」と手紙を送った。ドン・ヴィトーの役にはブランド以外にもイギリスの名優ローレンス・オリヴィエアーネスト・ボーグナイン(好きな俳優だけどドン・ヴィトー役は似合わないよね)、『パットン大戦車軍団』ジョージ・C・スコット、個性派俳優アンソニー・クイン、そして傑作『市民ケーン』を撮ったオーソン・ウェルズまでがその候補に挙がった。
 
🎬️結局、ドン・ヴィトーの役はマリオ・プーゾォが推したマーロン・ブランドに決まり、ブランドにとって見事なほどのハマリ役となった。
🎬️ドン・ヴィトーの娘コニー(タリア・シャイア)とカルロ(ジャンニ・ルッソ)の結婚披露パーティーのシーン。
🎬️ドン・ヴィトーの後を継ぎ、コルレオーネ・ファミリーのドンになったマイケル(アル・パチーノ)。
 音譜そして。ニーノ・ロータ【Nino Rota(1911~79)によって書かれた問答無用のテーマ曲を。ワルツの旋律に導かれて。コルレオーネ・ファミリーを巡るドラマの光と影が美しく交差していく。

 

音譜もう1曲、有名な『愛のテーマ』を。映画の中ではインストゥルメンタルとして流れ、『PARTⅢ』ではコルレオーネの息子が歌ったシチリア民謡『Brucia La Terra』として使われているので、そのシーンから。第1部公開当時は、歌入りヴァージョンでアンディ・ウィリアムスボビー・ヴィントン尾崎紀世彦フランク永井菅原洋一らによってカヴァーされた。

 

🎦フェデリコ・フェリーニ【Federico Fellini(1920 - 1993年)。ある程度の映画好きなら、この名前を聞いて興奮しない人はいないのではないか。映画史を代表する巨匠。イタリア映画界の最高峰。ローマにあるチネチッタ撮影所を「夢の工場」と呼び、そこに棲み、映画を撮り続けた男。または芸術と娯楽との境界線をなくし、爆発的なイマジネーションを映像に焼き付けて、世界中の人々を感動させ、魅了し続けた男。その作品群は、さまざまな人間模様が百花繚乱する人間大博覧会であり、人間を深く見つめ、人間の喜びや悲しみ、孤独や狂気について語り尽くされた人間讃歌でもあった。時に祝祭的に、時に悲哀を込めて。

 

1952年、フェリーニ初の監督作品となる『白い酋長』から音楽監督として起用されたニーノ・ロータ。ふたりはその後、1979年の『オーケストラ・リハーサル』に至るまで(ロータが亡くなるその年まで)フェリーニ作品にはなくてはならない不可欠な関係となっていく。因みに。僕のブログ 『映画と映画音楽について語るときに僕が語ること』では『太陽がいっぱい』『ロミオとジュリエット』の音楽をセレクトし紹介してきた。もちろんニーノ・ロータの音楽はどれもが素晴らしいけれど、フェリーニとのコラボレーションにおいて、その真価を発揮し、特に強い印象を与えてくれる。

 

🎦フェリーニが1954年に撮った映画史に残る傑作『道』 【La Strada】(1954年)。無垢で純粋な、天使のようなジェルソミーナと、獣のように粗暴で無自覚な男、ザンパノという二人のキャラクターの対比が、この映画を成功に導いた。何かの本で読んだことがあるのだけど、映画を制作する際にフェリーニは、ストーリーよりも俳優たちが演じるキャラクターを重要視している、と語っている。因みに。1998年にいしだ壱成酒井法子広末涼子らが主演し、野島伸司が脚本を書いた人気TVドラマ『聖者の行進』は、この映画から多大な影響を受けてると思うんだけど、どうだろうか。

 音譜ニーノ・ロータによる名曲中の名曲『道』のメイン・テーマ。2010年のバンクーバー・オリンピックでは、フィギュアスケートの高橋大輔この曲を踊った。


🎦圧倒的なイマジネーションと創造力で観る者を酔わせてくれる、フェリーニらしい作風が現れるのは『甘い生活』【La Dolce Vita】 (1959年)から。主演はマルチェロ・マストロヤンニアニタ・エクバーグアヌーク・エーメマガリ・ノエルアラン・キュニーという豪華さ。退廃的なローマ社会を描いたこの作品はフェリーニの力強い社会批判でもあったけれど、ヘリコプターで吊るされた巨大なキリスト像が運ばれる冒頭シーンや、河から引き上げられた怪魚のラストシーンに顕著なように、ストーリーの随所にシンボルが配置され、フェリーニのイマージュが独特の映像感覚で大胆に映し出されていく。

 

🎬️マストロヤンニアニタ・エクバーグが「トレヴィの泉」で戯れる名シーン。

 音譜ニーノ・ロータによる、モダンでロマンチックなスコアメイン・テーマを。


🎦映画界の虚構と現実、そして人間の本質を映画によって浮き彫りにした、フェリーニの代表作『8 1/2』【Otto e Mezzo】。この映画のタイトルは当時のフェリーニ自身のキャリアである8本と1/2目に当たる作品という意味で付けられた(1/2というのは処女作の『寄席の脚光』が共同監督だったから)。主演はマルチェロ・マストロヤンニアヌーク・エーメクラウディア・カルディナーレ。黒縁メガネの知的で大人な、アヌーク・エーメが実に魅力的だった。

 🎬️マストロヤンニが演じた映画監督グイドは、フェリーニ自身を投影したキャラクターであった。

 🎬️「人生はお祭りだ。一緒に過ごそう」というグイドの独白に続いて。ブラス音楽が高らかに鳴る、祝祭的なラスト・シーンを。フェリーニには子供の頃に幾度となく見たサーカスへのノスタルジーと偏愛がある。

 音譜その祝祭的なテーマ音楽を。


音譜フェリーニの映画の音楽をカヴァーした、ニーノ・ロータへのトリビュート・アルバム『Amarcord Nino Rota』は1981年にハル・ウィナーがプロデュースし、カーラ・ブレイを始め、ウィントン・マルサリスビル・フリーゼルロン・カータージャッキー・バイヤードらジャズの気鋭ミュージシャンに加えてブロンディデボラ・ハリーが参加した。

 音譜このアルバムから1曲。カーラ・ブレイ・バンドマイケル・マントラー(tp)の演奏による『8 1/2』のテーマ曲を。


🎦フェリーニと同じイタリア映画の巨匠、ルキノ・ヴィスコンティ【Luchino Visconti】1971年に撮った耽美的作品『ベニスに死す』【Death in Venice。原作はトーマス・マン。老作曲家(ダーク・ボガード)が少年タジオ(ビョルン・アンドレセン)の美しさに憑かれ、その美しさを見つめてはただただ悶々とする話だけど(そう。手を出しちゃダメだよ)、そこは貴族出身のヴィスコンティの作品だけに、高貴で芸術的で、しかも退廃的なエロティシズムが漂っていた。

🎬️美しきビョルン・アンドレセン。公開当時、来日し、明治製菓のCMに出演するなど高い人気があった。

 音譜この映画を美しく彩るテーマ曲には、グスタフ・マーラー『交響曲第5番・第4楽章 アダージェット』が使用され、マーラー人気復興の契機となった。


音譜パーシー・アドロンが1987年に撮ったドイツ映画『バグダッド・カフェ』【Bagdad Café】。アメリカの砂漠地帯にあるガソリンスタンドであり、モーテルでもある「バグダッド・カフェ」に夫婦喧嘩の果てに流れ着いた中年女性ジャスミンマリアンネ・ゼーゲブレヒトとそこに住む人たちの交流が描かれた不思議な感覚が宿る作品。僕自身はジャスミンという女性は或る意味、ただの中年のオバサンに成りすました天使なんじゃないかと思っているんだけど。

 
 

音譜音楽はボブ・テルソン【Bob Telson】ジェヴェッタ・スティールによって歌われたテーマ曲『Calling You』を映画のタイトルバックから。このテーマ曲を聴いていると、頭の中が淡いBlueに染まっていくような、そんな感覚の不思議な感覚に染まっていく。つまり。この映画にこの音楽ありき、ということ。


🎦ジャン=ジャック・ベネックス【Jean-Jacques Beineixが1981年に撮った長編デビュー作『ディーバ』【DIVA】(後に彼は『溝の中の月』『ベティ・ブルー』といった面白い作品を撮る)。その美しい歌声は一切の録音もレコード化もされないと言われるディーバ、黒人ソプラノ歌手ウィルヘルメニア・ウィンギンス・フェルナンデスシンシア・ホーキンス)のコンサートで郵便配達人のジュールフレデリック・アンドレイ)が憧れのディーバのコンサートで彼女の歌声をテープレコーダーで録音してしまったことから予期せぬ事件に巻き込まれていくというストーリーの作品。斬新な作風で当時、同じ頃にデビューした映画作家、『最後の戦い』リュック・ベッソン(後に『グラン・ブルー』『レオン』を撮る)、『ボーイ・ミーツ・ガール』レオス・カラックス(後に『汚れた血』『ポンヌフの恋人』を撮る)と共に偉大なる詩人ジャン・コクトーの小説が引用され「恐るべき子供たち」と呼ばれた。

 🎬️ディーバに寄り添うジュール。とても美しいシーン。

🎬️ヴェトナムの少女アルバ役のチュイ=アン・リューは不思議な魅力を漂わせていた。

 音譜ウラジミール・コスマ【Vladimir Cosma】による、まるでエリック・サティのピアノ曲のような美しいテーマを。


 🎦それじゃぁ、という訳で。最後にもうひとつジャン=ジャック・ベネックスの代表作『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』【37°2 le matinを。ベネックスを一躍、有名にしたこの作品の主役ベティを演じたのはベアトリス・ダル。自分自身にも制御不能な「激情」を抱えたベティと、ベティを「寛容」で包み込む男・ゾルグ

(ジャン=ユーグ・アングラードが演じた)との、深く、微妙な関係性が美しく描かれた。

 

音譜『ベティ・ブルー』の音楽を担当したのは、ガブリエル・ヤレド【Gabriel Yared】映画の冒頭、海辺で暮らし始めたベティとゾルグ。サックスで吹かれるテーマ曲がふたりの「これから」を暗示するかのようにメランコリックに響いていく。


 
「いゃぁ、映画って本当にいいもんですね」。
 

軽い気持ちで書き始めた『映画と映画音楽について語るときに僕が語ること』。いざ書き始めてみると映画と映画音楽に纏わる話は、個人的な想いが深く、そう簡単には終わりそうにないことを実感している次第。

 

それじゃあ
アデュー・ロマンティークニコ