Adieu Romantique No.525 『ジョンとヨーコのバラード』。 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

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僕が過去と現在、ロマンティークと感じた(これから感じることも)恋や音楽、映画、アートのいろいろなことを書いていきます。

 

                   Adieu Romantique No.525

            『 ジョンとヨーコのバラード

 

 僕がまだ中学生だった頃。そう。僕がビートルズに夢中になっていた頃には(既にビートルズは解散していたけど)、僕にとってオノ・ヨーコは(多くの人がそうだったように)とても厄介な存在だった。どこからともなく現れ、ジョンを誘惑し、ビートルズの曲を歌い(ビートルズの曲にビートルズ意外の人の歌が入るなんて考えられなかった)、その曲がビートルズのオリジナル・アルバムに収録されるなんてイラッ

 

ジョンの人格までを変えてしまった、その日本女性は、当時、観た映画『LET IT BE』の中ではさながらジョンを自在に操る魔法使いのように見えたほど。そう。大好きなビートルズを解散させた張本人として。

 

確かに。「そんな考え方はおかしい」と、今なら当たり前のように思えることも、昭和の日本の片隅に住む、ただただビートルズが大好きだったひとりの中学生が、恋すら一度もしたことがなかった中学生が、オノ・ヨーコに対してそういう感情を持ってしまったとしても別に間違いじゃなかったはずうーん。ろくな情報もない時代に感情だけが盲信し、猛進してしまっていたのだから。

 

音譜1968年にリリースされた通称ホワイト・アルバムと呼ばれている2枚組のアルバム『The Beatles』の、アナログA面6曲目『The Continuing Story Of Bungalow Bill』では中盤くらいからオノ・ヨーコのボーカルが入ってくる。因みに。意外にもポールはこの曲を気に入っていたらしい。

 

📷️事実上、ジョンとヨーコ、二人のデビュー・アルバム。1968年にリリースされた『未完成作品第1番:トゥー・ヴァージンズ』【Unfinished Music No.1:Two Virgins。アルバムのために撮られたメイン写真は正面からのNAKIDなショットなのでUPできないから裏ジャケの方を。あまり美しいとは思い難いヌードだけど、二人の精神は自由で美しいと思うな。

 

 📷️そして、1969年3月に結婚式を挙げたジョンとヨーコが(ヨーコは2月に前の夫、映像作家アンソニー・コックスとの離婚が成立したばかりだった)同年にリリースした『Wedding Album』。この時期のジョンとヨーコのアルバムはどれも、ちゃんと向き合って聴くには正直、しんどい(というより聴けない。或いは聴く気が起こらない)。だけど。すべてが二人の主張であり、活動であり、コンセプチュアルなアートであり、パフォーマンスだったのだもぐもぐフムフム

 

音譜一応、ちゃんと聴くことができる(例え聴けない人がいたとしても、それはそれで何の問題もないイヒ)、この時期の二人の音楽活動を象徴するような曲。ビートルズの『ホワイトアルバム』のアナログ2枚目のD面5曲目に収録されているミュージック・コンクレート(具体音楽)『レボリューションNo.9』を。こんな実験音楽がビートルズのオリジナルアルバムに収録されていること自体が驚きだよね(ビートルズのすべての曲の中の人気投票なら、ワースト1じゃないかなえー?)

 

📷️1969年。当時、激化していたベトナム戦争を背景にして。アムステルダムのヒルトンホテルの一室に世界各国のプレスを招待し、約一週間にわたって、ベッドの中から反戦や非暴力を訴えるというパフォーマンス「ベッド・イン」が繰り広げられた。

 

音譜同月にヨーコと共に平和活動パフォーマンス「ベッド・イン」を行った後の翌月4月に、とても性急にポールを召集し(ジョージリンゴは都合が付かなかった)、ジョンとポールの二人だけで録音し、シングルとしてリリースされた曲『ジョンとヨーコのバラード』【The Ballad Of John And Yoko】。今回の僕の記事のテーマ曲でもある。

 

 今考えれば。ジョンとヨーコのためのような曲にポールが全面的に協力してビートルズの曲として発表していることを考えれば(ポールがジョンに対する友好を示した、とも言えるけど)、ヨーコがビートルズの調和を乱していたようにはあまり思えないんだよねうーん

 

📷️同じ年の1969年12月15日、ジョンとヨーコはロンドンで行われたユニセフ主催の「ピース・フォー・クリスマス」コンサートに出演し、同時にニューヨークのタイムズスクエアなど世界11都市で一斉に「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT Happy Christmas From John & Yoko 」というクリスマス・メッセージが書かれた看板を設置するとともに、『WAR IS OVER ! 』と書かれたポスターを貼り出したり新聞広告を出したりなどの平和キャンペーンを行った。

 

音譜1970年に制作・リリースされたジョンのファースト・ソロ・アルバム『ジョンの魂』から。自らの生い立ちや過去と決別するような壮絶な心の叫び『Mother』を。

 

📷️因みに。ヨーコはジョンのこのアルバムと対峙し、対を成すアルバム『ヨーコの心』を同じ1970年にリリースしている。アルバムのカヴァー写真は『ジョンの魂』がヨーコにもたれかかるジョン、『ヨーコの心』はジョンにもたれかかるヨーコを、それぞれ対比させる構図で撮っている。

 

『ジョンの魂』をリリースし、その後もジョンは何枚かの素晴らしいソロ・アルバム発表した後、音楽の世界から遠ざかってしまう。

 

そして長い月日を経た1980年にジョンはヨーコと共に音楽の世界に戻ってくる。当時の僕はと言えば、ビートルズ熱はかなり冷めていたものの、それでもジョンのカムバックを喜び、まず先行リリースされた『Starting Over』を聴きまくり、その後、リリースされたアルバム『Double Fantasy』もすぐに買ってしばらくの間、ずっと聴いていた(但し、それでもやっぱり僕はオノ・ヨーコの曲を聴く気にはならなかった)

音譜ジョンが音楽の世界にようやく復帰し、「最初からやり直そう」と歌った、希望に満ち溢れた曲『Starting Over』を。そして、この曲が収められたアルバムのリリースから僅か1ヶ月もしない内に、あんな痛ましい事件が起こるなんて(犯行を起こしたマーク・チャップマン以外は)世界中の誰にも想像さえできなかった。

 

それから。僕自身はいくつかの恋を経験し、「主夫」【House Husband】という言葉を理解するようになって、大学の卒業論文はジョンとヨーコを中心にした平和思想について書いた。そしてその後、さまざまな音楽やアートに触れることで音楽やアートの真の自由さを理解し始めた頃から、ジョンとヨーコの純粋な愛の形に強く共感を覚えるようになっていく。さらには。1950年代から単身ニューヨークに渡り、自らのクリエイションに従い、オリジナルなアートを創造した、ヨーコの活動にも強い興味を持つようになった。そう。ジョンとヨーコではなく、オノ・ヨーコという個人の存在に対して、ようやくという感じで。
 

今でこそ、オノ・ヨーコについての情報は随分、更新されているし、ビートルズの解散は、誰かが悪いと言うよりも必然的にそういう時期を迎えていたことを共有することができている(多分)。要するにビートルズは1960年代と共にあり、60年代という時代の風に大きく後押しされた存在だったということだ。

 

だけど。そうは言うものの。今でもオノ・ヨーコに対していろいろな誤解を持っている人も少なくはないし(日本でも同じだ)、ジョンのラヴ&ピースの意志を継いだ日本人女性として理解されてはいるけれど(ほんとうはジョンと対等か、それ以上にヨーコはもともとラヴ&ピースに対する意識が高く、それをジョンと分け合い、共有したというのがほんとうのところのような気がする)、彼女がアーティストだということを知らない人だってたくさんいる。そう。オノ・ヨーコはいまだに偉大なるジョン・レノンの未亡人でしかないのかも知れない。


まぁ、そのようなことで。ジョン単独の話は今更なので脇に置いておいて。オノ・ヨーコのアートに関する断片を拾い集めてみることにするね。

 

🎨1959年に行われたパフォーマンス『Painting To Be Stepped On』は、床に置いたキャンバスを観客が踏みつけていくことで完成する、ヨーコの最も古いアート作品のひとつ。

🎨1964年に出版された作品『グレープフルーツ・ジュース』から「指示」のアートを。当時はまったく理解されなかったという。

 

 

この詩のような言葉が素晴らしいと思えるのは、ヨーコの中に存在する深く広大な「愛」「母性」から発信されていると思えるから。まるで母が子供に教えるように。「指示」【Instruction】する(「示唆」する、或いは「導く」)アートであり、そこには強靭な強さと潔癖さ、深さや包み込むような優しさが同時に湧き出している。少し前に。僕のブログの自己紹介記事で「僕は人から命令されたり指示されるのは大嫌い」と書いたけど、こんな「指示」なら喜んで受け入れたい。

 

🎨1964年、スーツを着たヨーコが客席のお客さんにハサミで好きなところをカットさせて、持ち帰らせ、最後は裸同然の姿になってしまう『Cut Piece』というコンセプチュアル・アートであり、今で言うインスタレーションでもあった。当時、ヨーコが頻繁に行っていた、過激で先鋭的なアート活動は(『レボリューションNo.9』も含め)もともとヨーコが1960年代初頭にジョージ・マチューナスが主宰し、ジョン・ケージナム・ジュン・パイクヨーゼフ・ボイス久保田成子愛嘔、武満徹、(ヨーコの元夫)一柳らが関わった世界的な前衛アート集団「フルクサス」【Fluxus】に参加していたことを考えれば納得がいく。
 
 
🎨当時、さまざまな悩みを抱えていたジョンは、1966年にロンドンの「インディカ・ギャラリー」で開催される前日の「未完成の絵画とオブジェ」【Unfinished Paintings And Object】というヨーコの個展にフラりと立ち寄った。そこには白く塗った板の近くにハンマーが置かれ、「ハンマーで釘を打ちなさい」というような指示の作品『Painting To Hammer A Nail』が展示されていた。興味を示したジョンがヨーコに「釘を打ってもいいですか」と尋ねると、ヨーコは「まだオープン前だから困ります」と答えた。がっかりしているジョンを見てヨーコは「じゃあ、5シリングを払えば打ってもいいです」と言い、それを聞いたジョンはこんな風に答える。「それじゃあ。お金を払ったつもりで、想像の釘を打ってもいいですか」と。そのユニークな答えにヨーコは笑みを浮かべたという。
さらに。ギャラリーの奧へと進んだジョンが「梯子を登り、ルーペで天井にある文字を読みなさい」という「指示」に従うと、そこにはすべてを肯定するような【YES】という小さな文字が書かれていた。そう、つまり。『Yes Painting』というヨーコのコンセプチュアル・アートに導かれてジョンは救われ、その時からジョンとヨーコのバラードが奏でられ始めたのだ🎵。

 

👕過去、ヨーコのインスタレーションを僕なりにデザインしてオリジナルT-shirtsにしたことも(そのまんまなデザインやんかぁーおーっ!)。

 

🎨長年、継続して制作されてきたシリーズ『A Box Of Smile』の1971年の作品(ジョンの前妻シンシアとの間に生まれたジュリアンに捧げられている)。このシリーズは箱を開けた人の、作品に対する反応が鏡に映り、鏡に映った自分を見ることによって自分自身を見つめることになるというアートである。方法論やその思考は異なるものの1910年代に起こった「DADA」の影響下にあるようにも思えるし、何よりも偉大なるマルセル・デュシャン【Marcel Duchamp】の強い影響を感じるのはヨーコが「フルクサス」に参加していことからも理解できるし(フルクサスに参加したアーティストたちは軒並みデュシャンの影響を受けている)、ヨーコがデュシャンから強い影響を受けていたとしてもおかしくはない。
 
因みに。ヨーコと同じく1950年代後半に単身アメリカに渡り、独自の活動を展開した草間彌生のアートは、自己の内面と向き合い続けた葛藤の軌跡であり、常にCoolであったヨーコのアートとは本質的にまったく異なるところが面白い。

 

オノ・ヨーコの音楽を。

 

1971年のソロ・アルバム『フライ』【Fly】から。前の夫アレックス・コックスとの子供、キョーコに贈った曲『京子ちゃん、心配しないで』【Don't Worry Kyoko】と、「ジョン・レノン夫人」という複雑な立場を自ら歌った『Mrs Lennon』を2曲続けて。アルバム・カヴァーに使用された写真自体がアートになっている。

 

 🎨2001年9月11日にアメリカで起こった「同時多発テロ」に対して。ヨーコは事件から2日後、9月13日のニューヨークタイムス日曜版に匿名でとても短いメッセージ広告を1ページで掲載した。「Imagine All The People Living Life In Peace -John Lennon-」

🎨2009年に制作された、銃弾が撃ち込まれた大きなガラス作品『穴』【A Hole】。作品にはヨーコの「指示」が添えられている。「ガラスの反対側に行き、穴から覗いてみなさい」【GoToThe Other Side Of The Glass And See Through The Hole】。銃弾を打つ側と銃弾を打たれる側の関係性を問題にしている。因みに。僕はこのヨーコのガラスのアートからマルセル・デュシャンの、通称『大ガラス』と呼ばれる『彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも』という作品が浮かんだ。

🎨2016年の作品『色を加えるペインティング(難破船)』【Add Color Painting】
 🎨2012年にアイルランドから放たれた平和への祈り『Imagine Peace Tower』
🎨ジョンが亡くなった後も「ラヴ&ピース」への祈りのようなアートはずっと続いている。2022年にニューヨークで展示されたメッセージ「IMAGINE PEACE」のサイン。

 
ドキドキ今現在の世界の状況を見るにつけ(もちろん日本も含めて)。どんなメッセージよりも強く美しい、ジョンとヨーコのメッセージを。ヨーコ風に「指示」させていただくなら「Eye To Eye , Lip To Lip , Body To Body ,  Love To Love あなたたちがひとつになるまで重ね合わせなさい」
 
音譜やっぱりこの曲はPick Upしておかないと。ジョンとヨーコの共作であることが一般にも認められた『イマジン』【Imagine】と共に。

 

 
 
 
 
音譜音楽を挟んでおくね。『Double Fantasy』に収められたヨーコの曲『Kiss Kiss Kiss』

 

 
 📷️アニー・リーボヴィッツが撮ったジョンとヨーコ。
 
 📷️アメリカの写真家アラン・タネンバウム【Allan Tannenbaum】が撮ったジョンとヨーコ。
 
 
 
 📷️篠山紀信が撮ったジョンとヨーコ。
 
 
今現在、オノ・ヨーコは認知症を患っていると言われ(もう90歳だしな)、50年近く暮らしたニューヨークのダコダ・ハウスを離れ、1978年にジョンと共に購入したニューヨーク北部のフランクリンと言う村に移り住み(その土地の広さは実に東京ドーム約50個分)、隠遁生活を送っているらしい。そこはかつてジョンがビートルズ時代に『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』【Strawberry Fields Forever】で歌った「現実離れしていて、何も気にしなくてもいい場所」【Nothing Is Real And Nothing To Get Hung About】(ジョンが幼少期を過ごした孤児院「ストロベリーフィールド」という場所と関係している)に辿り着いた(或いは還り着いた)のだ。

音譜最後に。僕も大好きなその曲『ストロベリー・フィールズ・フォーエバー』で締め括ろう。

 

 何だかまた中途半端な記事になってしまったと思いつつ。
 
愛と平和と慈しみを込めて。「Forever John & Yoko」。君たちのことはずっと忘れないよ。
 

じゃぁ、今回はこの辺で。

アデュー・ロマンティークニコ