ロマンティークNo.0121 右か左か。後戻りをするか。横尾忠則が描いた『Y字路』のこと。 | 『アデュー・ロマンティーク』~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか~

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今回の記事にはほとんど関係ないが、まずはつい先日、亡くなられた内田裕也のことから書き始めたいと思う。僕自身はそれほど興味がある訳じゃない。知っていること(僕が興味のあること)を書くとすれば、まず内田裕也は1965年にキレた歌謡ロック『スイムで行こう』を歌ったこと。1966年にビートルズが来日した時には、武道館公演の前座を務め、尾藤イサオとのツインボーカルで、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズをバックに『ウェルカム・ビートルズ』他、数曲を歌ったこと。1960年代末のフラワー・ムーヴメントを体現したバンド、内田裕也とザ・フラワーズと、その後のブリティッシュ・ハードロックやプログレッシヴ・ロックを体現したバンド、フラワー・トラベリン・バンドを率いたこと。そして音楽よりもむしろ、鬼才、若松孝二が撮った『水のないプール』(1982)、崔洋一の『十階のモスキート』(1983)及び、パンタ率いる頭脳警察の曲のタイトルから取られた『コミック雑誌なんかいらない』(1986)などで映画俳優として際立った個性を発揮していたこと。後は。1983年、「外タレばかり呼んで、もっと日本のアーティストを使え!」という、無茶ぶりな内田哲学のもと、ウドー音楽事務所に刃物を持って殴り込みに行った事件のことなのだが。
 
けれど。僕が内田裕也に関することで最も関心が高いのは、1969年のTV番組「ヤング720」という番組に内田裕也とザ・フラワーズの麻生レミ、そしてエイプリル・フールというバンドに在籍中だった細野晴臣が出演した際、「これからの抱負は?」というインタビュアーの問いに対して細野晴臣が「来年は日本語とロックを融合(結納)する」と答えたことに端を発して、以後、雑誌『新宿プレイマップ』(1970年10月号)誌上での「ニューロック座談会」や、現在のミュージックマガジンの前身である『ニューミュージック・マガジン』(1971年5月号)誌上での「日本のロック状況はどこまで来たか」(参加者:福田一郎、中村とうよう、ミッキー・カーチス、内田裕也、大滝詠一、松本隆など)という対談の中で、ロックを日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが「議論」された、所謂、「日本語ロック論争」のことである。
 
「日本語はロックのメロディーに乗らない」。「海外で成功するためには英語は不可欠だ」という内田裕也を中心とした英語ロック派と、はっぴいえんど(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂が在籍)を中心とした日本語ロック派の対立になった、という当時のロック事情がよく分かる動きだが、当時の『ニューミュージック・マガジン』誌上の年間ロック賞では、ほとんどが日本語で歌っているアーティストやバンドが選ばれており、そういった状況に対してフラストレーションが溜まった内田裕也らが、ただクレームを付けただけ、というようなものだったらしい。
 
この対談の中で内田裕也は「(はっぴいえんどの)「春よ来い」にしたって、よほど注意して聞かないと言ってることがわからない。歌詞とメロディとリズムのバランスが悪く、日本語とロックの結びつきに成功しているとは思わない」と指摘をしている一方で、「去年の『ニューミュージック・マガジン』の日本のロックの1位が岡林信康で、今年ははっぴいえんど。そんなにURC(当時の、フォーク系のインディーレーベル)のレコードがそんなにいいのか? 僕たちだって一生懸命やってるんだ、と言いたくなる」と本音を吐いている。それに対して。(はっぴいえんどの)松本隆はいたってクールに、ロックに日本語の歌詞を乗せることには未だ成功していないことをあっさりと認めたうえで、内田裕也がプロデュースした「フラワー・トラベリン・バンドやザ・モップスについてどう思うのか?」といった内田裕也からの挑発に近い問いに対しても「僕たちは人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうと構わないと思うし、音楽についても趣味の問題だ」と全く意に介さずと言った発言をしており、両者の間には明確な温度差があったという。今の時代から見れば。「そんなことで熱くなれる時代があったのか」ということであり、ある意味、牧歌的な話であるとさえ感じてしまう。まぁ、この双方の発言を聞く限りは、どう考えても松本隆の意見が正しいとしか言いようがないが、内田裕也という人を知ることができる、とても面白いエピソードだと思っている。簡単に言ってしまえば、とても熱くて天然な人、だろうか。いずれにしても。いろんな意味で好き勝手、自由に生きた内田裕也のご冥福を祈る。
 
さて、と。本題に入ることにする。今回は横尾忠則のこと。僕が思うに、横尾忠則は日本を代表する、或いは昭和を代表するポップ・アーティストであると思っている。何故、昭和を代表する、と表現するかと言えば、1960年代のポップ・アート的展開のグラフィックデザインは、そのテーマや題材が実に昭和的であったからなのだが。まずは、その60年代から70年初めにかけてのグラフィックな作品をさらっと、いくつか紹介しておきたい。
 
■アンディ・ウォーホルにはモンロー。横尾忠則には緋牡丹博徒・藤純子である。横尾忠則こそは、まさに日本を代表するポップ・アーティストであり、昭和を代表するポップ・アーティストであるという証し。実にPOPである。
■オノ・ヨーコの元旦那さんで現代音楽家の一柳慧と横尾忠則のコラボレーション・アルバム『オペラ横尾忠則を歌う』(1969年)のカヴァーアートは横尾自身の自画像。このアルバムには高倉健や、内田裕也とザ・フラワーズも参加している。
■寺山修司が主宰した天井桟敷のポスター。
■横尾忠則には常に三島由紀夫の亡霊が憑いていた。
■「巨人の星」が掲載されていた少年マガジンの表紙を横尾が担当した。ユニフォームに書かれたお経のような言葉。ほとんど閃きだけのデザインである。
 
60年代から70年代初めの頃の、ヌケまくったグラフィック作品のことは、いずれまた改めてディープに語るとして。次は2000年から制作された『Y字路』シリーズにスポットを当てて書いていくことにする。
 
横尾忠則は1960年代から70年代初めにかけて、その天才的な閃き、アイデアで時代の寵児となった。
それから。70年代の中期にはスピリチュアルに向い、細野晴臣と共にインドへと旅をすることになる。スピリチュアルヘの傾倒は、横尾忠則が子供時代からもともと興味を持っていた宇宙とか、超常現象とか、U.F.Oなどの世界が花開いたものと言えるのだが、その後も、ずっと書き溜めていた夢日記を出版したり、滝に憑かれたり。1980年にはニューヨーク近代美術館で観たピカソの展覧会に衝撃を受けて画家宣言をしたり、常に疾走していた1960年代の活動とは異なる(ように見える)、ある意味、とても奇異な行動を繰り返していたように思っている。その奇異な動きとは、周りから見れば、「立ち止まっている」ようにも「迷走」しているようにも見えるし、とてつもなく長い「回り道」や「寄り道」をしているようにも見えるのであった。
 
ごく最近。僕のブログ記事で「僕自身は効率だけを考えて生きていくことはできない。一見、無駄であるようなことも僕には必要なのだ。そういうものがなければ僕はどこへも行くことができない」というようなことを書いたが、横尾忠則も、もともと少年の頃からそういう資質を持っていたことも含めて、(時代という風に背中を押された60年代は別としても)必然的に「立ち止まったり」、「迷走」したり、「回り道」や「寄り道」を選んできた人だと思うし(自分は横尾忠則といっしょだと言わんばかりだなぁzzz)、そのように「迷走」したり、「回り道」をしたり「寄り道」をしながら、進むべき方向を定め、再びまた歩き始めるという、そういう人なのだと思っている。
 
今回、語ろうとしている『Y字路』、こそは。そういった「迷い」があってハタと立ち止まる時に、繰り返し顕われる、横尾忠則の原風景なのだ。どこの町にでもごく普通にある『Y字路』というのは、横尾忠則にとっては特別な場所である。横尾忠則にとって『Y字路』に差し掛かる、その場所は「現在」であり、後ろの道は「過去」、そして前の2本に分かれた道は「未来」。「現在」という場所に立ち止まった時に、右へ進むか左へ進むか、逆に後戻のか、という選択の連続がそこに顕われるのである。
 
それでは不思議な不思議な、横尾少年の原風景とも言える『Y字路』の作品を紹介していく。

 

■横尾忠則の原風景。生まれ故郷である兵庫県西脇市内にある『Y字路』の、実際の写真。

■横尾忠則の原風景であり、夢の中の幻想でもある風景を描いた、さまざまな『Y字路』を続けて紹介しよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
そして、オマケとして(失礼!)。今回の記事のプロローグになった「日本語ロック論争」の火種、内田裕也がプロデュースした伝説のバンド、フラワー・トラヴェリン・バンドのファーストアルバム『ANYWHERE』のカヴァーと(90年代にジュリアン・コープというイギリスのミュージシャンが日本のロック創世記について書いた名著「ジャップ・ロック・サンプラー」の表紙にも使われた)、名曲『Make Up』(日立のテレビ「キドカラー」のCMに使われたことも)を。ジョー山中のハイトーン・ヴォイス、石間秀樹のギター。伝説である。

 

■もう1曲は内田裕也に、「よほど注意して聞かないと何を歌っているか分からない」と言われてしまった、はっぴいえんどのデビューアルバム(通称、ゆでめん)のカヴァーと、その1曲目『春よ来い!』の大瀧詠一の名唱を。松本隆の言葉の行間を聴き取るのは難しいかもしれないが、何を歌っているかは普通に分かると思うけどな。

 

 

それでは。皆さんも、それぞれの『Y字路』で一度、立ち止まってみよう。
 
アデュー・ロマンティークニコ
 
 
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