中庸の危険:忖度文化と個人主義 | texas-no-kumagusuのブログ

texas-no-kumagusuのブログ

トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

それぞれの分野で生きてきた人間が自分の専門で手に入れた色眼鏡で分析してみることは、それとは別な色眼鏡を手に入れた人にも参考になります。複雑な問題は多面的であり、切り口の選び方で全く違った側面も見せてくれます。だから、他の専門分野の人の様々な意見も重要になるのですね。私もある分野の専門家の端くれですので、その色眼鏡で見た私の視点から中庸について語ってみます。

多分標準的な意見だと思いますが、時々聞く意見として、日本人が1500年以上の長い歴史で手に入れてきた忖度文化に対して、西洋的な個の確立した個人主義的な要素、すなわち忖度否定文化を適度に取り入れた、極端に走らない中庸を手に入れてみたら住みやすい世の中ができるのではないかと言う主張にお目にかかります。要するに、色々な文化の良いとこ取りをしてみたらどうかと言う主張です。

私が複雑系の物理学の一端を生業にしてきて手に入れた色眼鏡から見ると、良いとこ取りは逆に危ないのではないかと思えてしまうのです。人類も生物も進化を遂げてまいりました。この進化を量的に把握する数学的理論に、「分岐の理論」というのがあります。この分岐の理論は、ある単純な構造を持った集団がより複雑な構造を手に入れるときに、平均値の周りに偶然に起こるゆらぎを利用して分岐という過程を経ながら進化することを明らかにしました。

それによると、今まで単純な安定構造を持っていた集団を取り囲む環境が徐々に変化したり、あるいは集団の繁栄によって集団の個体数が増大したり、富の蓄積が増大してくると、今までの安定状態が不安定状態に変わり、その時点で、互いに全く正反対の性質を持った新しい安定状態が出現する。特別な状況でない限り、この場合多くの安定点ができるわけではなく、相反する2つの安定点が出現します。なぜ3つや4つでなく2つの安定点が出現するのかについては数学的根拠があるのですが、それは専門的になりすぎるのでその説明は省きます。

そして、今までいた古い安定点は不安定になってしまったので、新しい安定点に移ります。しかし、その新しい安定点のどちらに移行するかは、前もって予測不可能で、ちょっとした偶然がどちらに移行するかを決めます。このようにして、初めは単細胞だった単純な生物が、一方はチョウチョウになり、他方はトンボになるという道筋を通って、この世界が多様で豊かな自然界の構造を手に入れてきた。この場合、チョウチョウの方が優れているとか、トンボの方が優れているなどという主張は全く意味がありません。ただ、成り行きでそうなっただけであり、それぞれの存在が、安定した存在としてその存在を享受しているだけです。

また、この分岐の理論から得られる一つの重要な結論は、この相反する二つの安定状態から良いとこ取りをして人為的に作った状態は安定点にはなり得ないということです。そしてそのことから、生物の種は一般的に不連続に存在しているという経験則が理論的に理解できるのです。要するに、この相反する二つの安定状態から良いとこ取りをして人為的に作った中間状態は不安定状態となっていて、必ず滅んでしまうからです。

その視点で、忖度文化の日本と個人主義的で忖度否定文化の二つは、この分岐で起こった相反する二つの安定状態なのだと私は考えています。

私が危惧しているのは、戦前まで高度に発達させてきた日本の忖度文化に、敗戦という絶望感と戦勝国からの強制的な押し付けによって、木に竹を継ぐように忖度文化になじまない個人主義的な価値観を移入してしまったことから起こってしまう結果です。上記の分岐の理論の結論は、そのような状態は不安定状態であり、滅びに至る状態だということです。

戦後70年以上の経験を積んで、最近になって戦前の日本的ナショナリズムが復活してきたと憂いている方もおられるようです。でもそれって、良いとこ取りの人為的な不安定状態から、日本が1500年以上に渡って手に入れてきた本来の安定状態に移ろうとしている運動じゃないかしら。

多分、そのような主張をする方は西洋文化にとっぷり浸かり西洋的な文化の良さに魅了され、日本人も西洋人のそんな素晴らしい考え方を受け入れたら、日本が素晴らしい国になれるとでも思っているのかしら。でも、それは近代物理学が手に入れた分岐の理論の視点から見ると、危険じゃないかと私には思えます。