個人主義と民主主義 | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

世相は激しく変わって行くものです。若者達の振る舞いは20年もすると、すっかり変わってしまい、昔の「今どきの若い者」が初老に近づいて来るころには、その人達もまた「今どきの若い者は」と言い出す現象が、古今東西を問わず、エジプト時代から永遠と繰り返されて来たようです。これから論じることは、今から20数年も前にその頃の「今どきの若い者」について思い至ったことなので、最早すっかり変わっているかもしれません。

その頃、日本から米国にやってくる若い女性方を見ていて気が付いたことがあります。彼女らは自分の意見をはっきり言い、その頃の若い男性方よりも遥かにしっかりしていて頼もしく見えました。大戦後、ストッキングと女性は強くなったと言い古され、これは世界中共通の現象のように言われておりました。が、 日本の女性には何かもう一つ違った理由があるように感じられました。これには何か日本文化の深いところが関わり合っていそうです。この日本女性のことについて「風が吹けば桶屋が儲かる」式に少し回り道になりますが、一見関係ない話から始めましょう。

物理屋の私が米国に初めて来たころ、ある国際会議に出席して驚いたことが一つありました。その会議を取り仕切っていたのは世界的に有名なある老教授でした。日本では、そのような偉い方は後ろの方にデンと座っていて、雑用は若い者にやらせるものです。ところが、会議の参加者をどのホテルに振り分けるかまでこの教授の採択でやっていたのです。まわりの若い者には採択権はなく、教授の決めたことの手足となって甲斐甲斐しく働いておりました。どうやら米国ではこれが当たり前らしく、大会社でも社長がバリバリ働き、細かいことまで社長が決定して部下に指示を出す、これがこちらのやり方のようです。言い方を換えると、米国では命令方式なのです。したがって、米国の会社や組織では上に立つ人の能力次第で運営の善し悪しが決定的に作用されてしまう。だから、 英雄志向型の組織なのです。

一方の日本では一々の細かい決定は下の者に任せている。上の者は管理者として、その豊富な経験に基づいて人間関係などで組織運営に障害が起こらないように監視していれば良い。組織は全員が動かして行くものと言うことのようです。

日本のこのやり方の違いは、組織構成員に米国でのそれとは大変違った精神構造をもたらすのではないでしょうか。例えば、米国では、ある日、社長が自分で他社との契約を取りに行き、相手から納品の期日を今週の金曜日までにしてくれと要求されたとします。その商売がたまたま、こちら側に大変有利だったとしたら、社長はその場で快諾するでしょう。ところが、自社に帰ってトラックの運転手にその旨を伝えた時に、運転手が「他の予定が入っていて、そりゃ無理ですよ」とでも言ったとします。その運転手は即刻くびにされてしまうかもしれません。下っ端の運転手には重要な問題に対して決定権がないからです。

これが日本だったら例えば先ず営業部のお偉いさんなどが派遣されるでしょう。同じ要求が出されたら、きっと電話でもするなり自社に戻るなりして仲間内で根回しをする。そして、例えば運転手の意見を聞いてから、金曜は無理だが月曜ではどうだということになるでしょう。この方法では契約に辿り着くまでに時間がかかりすぎる欠点はありますが、確実に納期を守れる点では優れています。

日本のこのやり方の要点は、たとえ下働きの運転手といえども組織の一員として意思決定の過程に参加できると言うことです。その結果、取引の成功の喜びを分かち合えますし、また、失敗したときにはその失敗の責任の一端を感じることが出来ます。言わば一億総責任体制です。この意味で、日本は世界で最も民主主義平等主義の発達した国の一つだと思います。

その点、米国方式では、命令されてやった者は決定権がなかったので、責任を感じることができない。一方のやりての社長も、責任など感じていられません。そこが「やりて主義」や「実力主義」たる所以で、実力のある社長はまわりにいる実力のない弱い性格の人を一人血祭りに挙げて、ほら責任が取られたと、一件落着します。言わば、一億総無責任体制です。これから私が言いたいのは、この日本と米国のやり方の違いが日本女性の強さに関係していると言うことです。

この日本式のやり方で生活している人たちは意思決定参加の過程を通して、自分のアイデンティティをその組織の中に見出して来るのではないでしょ うか。組織の中の自分、協調を旨とし過度な自己主張を制御する自分を作り上げて行きます。したがつて、彼は自分の意見を言う前に、まずは皆がどう考えているのかを探ろうとするようになる。このような組織では、一人ひとりには一見個人としての断固とした意見がない恰も蟻のように貧弱な者に見えます。ところがどっこい、組織集団としては統一された意見があり、たった一匹でしか行動できない虎をも倒すことが出来ます。

前置きが長くなりましたが、いよいよ始めの女性問題に戻りましょう。日本の中でこの蟻集団に参加できるのは今のところ、残念ながら男性だけのようです。 最近の国連の調査でも、日本女性の社会進出度は他国と比べて痛々しい程下位にあるようです。どうやら、この差別社会構造が上で述べた日本女性の頼もしさに関係があるようです。日本女性は差別されては居りますが、また、戦後の経済成長のおかげで世界でもトップクラスのお金持ちでもあります。

さて皆さん、お金はあり時間と暇はあるが、社会の意思決定過程から完全に閉め出されている自分を想像してみて下さい。その暇な時間で何をしますか。お金と暇にまかせて浮気でもして見ようかと言う不届き者もいましょうが、きっとその時間を利用して何か自分や他の人の役に立つことをするための自己啓発でもして見ようかと思うでしょう。組織としての意思決定に参加できない貴方は、きっと自分の中に自分のアイデンティティを見つけだそうと努力するのではないでしょうか。その結果、自分で考え自分の意見が言えるようになる頼もしい自分が出来上がって参ります。そうです、日本女性の頼もしさは、彼女らが差別されて来たことの結果なのです。

ここまで来て、ふと次のことに思い当たりました。近代までの西洋では、社会の意思決定に参加できたのは一握りの貴族たちだけでした。これは、日本での当時の各藩の下級武士らが細々したことを取り仕切っていたのとは大分違います。それと同時に、そのころの西洋では産業革命でブルジョワジーの勃興がありました。 この成り上がり者達には金と時間はいくらでもありましたが、社会の意思決定には参加させて貰えなかった。ちょうど日本の女性と同じような状況に置かれていました。その彼らが、西欧が世界に誇る「個人主義」なるものを発達させて来たのでした。個人主義は民主主義の結果として出て来たのではなく、どうやら西洋の差別社会が生み出した鬼子だったようです。