奧斯汀(オースチン)じゃがたら芋:光とはなんですか? | texas-no-kumagusuのブログ

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トミオ・ペトロスキー(Tomio Petrosky、日本名:山越富夫)のブログです。

今まで少しずつ書いてきた随筆を 

 

『奧斯汀じゃがたら芋』 

 

と名付けて小冊子にしています。その抜粋を時々載せてみようと考えています。 

 

その芋の心はと問はれ かぎ問はば を頭にして詠める 

 

唐ごころ ききつなれにし 外つ国しあれば はるばる来ぬる 和の国ぞおもふ  在原行平鍋 

 

唐人の 寝言に驚き 目がさめる  猪突

 

texas-no-kumagusuのブログ-猪武者

(著者所蔵)

 

 

以下の随筆は物理学を研究している方々のために書いた物です。 

 

『光とは何ですか?』 2009年4月 物理学的側面は、いろいろな方が教えて下さるでしょうから、ここでは物理を勉強していると、つい忘れてしまう光の側面を列挙してみます。 


ひかりはこだまより速くのぞみより遅く移動します。 

 

光は我々人間に外界の情報を伝えてくれる機構の中で、最も重みを占めているものです。正常な人間は90%以上の情報を光を通して得ているとのことです。したがって、瞑想する人は一様に目を閉じるか、あるいは半眼になって、外界からの雑音を遮断しようと努力しています。 

 

光は屡々太陽として象徴され、砂漠を除いた民族では、太陽は生の営みの源であると讃えられております。 『元始、女性は太陽であった』 でも、アラビアでは太陽は地獄の象徴ですので、かつて、アラビアに輸出していた日本の缶詰のマークが太陽だったために、売れ行きが悪かったそうです。アラビア諸国では、太陽の代わりに月と星を国旗に使って、光を讃えています。 

 

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 

 

「光源氏」とは「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称で、本名が「光」というわけではないそうです。 

 

『古事記』によると: 

天地初めて発りし時に、高天の原に成りませる神の名、天之御中主の神。次に、高御産巣日の神。次に、神産巣日の神。この三柱は、みな独神と成りまして、身を隠したまひき。 

 

このように、日本では、「日」の文字を持った神が、2番目から出てきますので、始めに光はなかったようです。ただし、『日本書紀』では、高皇産霊尊、神皇産霊尊という字を当てていますので、果たしてこの神々が光に関係あるかどうかは断定できません。 

 

ユダヤでは:

 はじめに神は天と地とを創造されたが、地には形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていたとのことです。そこで神は「光あれ」と言われたそうです。したがって、光は、天と地と水の後に出来たそうです。 

 

『往生要集』によると、阿鼻地獄、あるいは無限地獄と呼ばれている地獄の最下層には、 

 

「一切はただ火炎なり、、、」、「悪処の闇の中にありて大火炎聚に入る、、、」 

 

となって居ります。したがって、地獄の最下層にも光があるようです。

 

 また、『神曲』地獄篇でのダンテが地獄の最下層、第9圏を通過する時に、 

 

「、、、この者はなぜ頭を下にして突き刺さっているのか、なぜ短い間に太陽は夕方から朝へ移動したのか」 

 

と言っております。こちらの地獄の最下層にも光は届いているようです。

 

 雲の切れ間から太陽の光が漏れて光線の柱が放射状に降り注いで見える現象をユダヤでは「天使の梯子」と呼びます。旧約聖書創世記28章12節で、ヤコブが夢の中で雲の切れ間から差す光のような梯子が天から地上に伸び、そこを天使が上り下りしている光景を見たとされることからそう呼ばれているそうです。 

 

この神々しさはどの民族でも語られているようで、万葉集巻十七「敬和立山賦一首并二絶」4003に 

 

朝日さす そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 

 

と詠まれてその神々しさを讃えております。「そがひ」とは斜めという意味です。

 

 琉球宮古列島の来間島豊年祭の由来譚は日光感精による処女懐胎だそうです。この日光感精の話は、宮古列島ばかりでなく、奄美、北アメリカ北西海岸、南西部、 フィジー、トン ガ、サモア諸島というように太平洋沿岸地方に広く匿分布しているそうです。チンギス・カンの祖も光を受け、夫を持たないまま3人の息子を儲けている。したがって、マリアの処女懐胎に類する話は、世界中にいくらでもあるのです。 

 

光子は「こうし」とも読みますが、「みつこ」とも読みます。彼女はある時は、私一人を愛しているように見えますが、またある時は、何人もの男性を同時に愛していると いう具合に、ある時は局所的な存在であったり、ある時には非局所的な存在であったりします。そのことを物理学の専門語では、「彼女はウェービクルである」 と言います。これは(ウェーブ+パーティクル)/2と言う意味です。漢字では米偏に皮と書きます。これは(粒+波)/2と言うことで、彼女が局所的であり、かつ非局所的であるという二重性を表しています。彼女は気まぐれで望みを与えてくれないので、「のぞみ」よりも格下げされているようです。 

 

光子をフォトンと呼ぶこともありますが、私の実験では可視領域のフォトンは布団を通過しないようです。因に、布団をアメリカ人はフートンと発音し、彼等は、ベッドと兼用の長椅子のことを指します。また、「指す」は指で指すこと、「差す」は光が差すことだそうです。 

 

また、光子は腰が軽いと言っては失礼になってしまいますが、目方が在りません。そのために、電気を持った粒子どもが光子を通して引き付けたり反発し合う力は異常な長距離に及び、それを数学で表すといろいろな特性を示します。特に光子が赤っぽい色をまとっている場合など、赤外線発散と呼ばれる悪さをして物理屋さん達を悩ませます。

 

 また、光子は波長を持っていますが、可視領域の波長の長さは原子の千倍程大きく、 したがって光子は原子から見て巨大な大きさを持っています。ところが量子力学によるとその光子は原子との素過程と呼ばれる相互作用で全体が一度にまとまって吸収されたり放出されたりします。我々はつい、その素過程で小さな原子が大きな光子を一気にではなく、ずるずると吸い込まれたり吐き出されたりするという間違ったイメージで理解しようとしてしまいます。アインシュタインもこのことで大分悩んだとのことです。このように光子は捕らえ所が無く、未だに物理屋さん達を翻弄して喜んでいるようです。 

 

また、光は人に悪さをすることもあり、邪視といって大変恐れられていました。悪鬼に睨まれると、病を負い、場合によっては死んでしまうからです。西洋でのジョークに 

 

「神様でもウエイトレスは殺せない。なぜなら、ウエイトレスと目を合わせることが出来ないからだ」 

 

というのがあります。 

 

この邪視という光の魔力を避けるために、多くの国の人達がいろいろと工夫 してきました。例えば日本では、人名に穢物の名前を付けて、小神輩が児童の美を羨んで送り出す邪視の光を避けるため、押坂部史毛糞、倉臣小屎、阿部朝臣男屎、卜部乙屎麿、下野屎子、等々と、名付けました。それと同じ考えに基づいた習慣が、パンジャブの民族にもあるそうです。 

 

また、アイルランドでは、貪欲、憎悪、嫉妬等の邪念をもって、人畜、物件を見れば、見られる者に害ありと信じる輩多く、その邪念による光の射出すを避けるべ く、古寺観の前に女人陰を露わせる像を立てたことがあったそうです。あたかも落雷のさい避雷針よく電力を導散して、災禍なからしむに同じ、とあります。 

 

『日本書紀』 にも、 

 

「一神あり、、、その鼻の長さ七咫、背の長さ七尺、 云々、また口尻明かり照り、眼は八咫鏡のごとく、照り輝けること、云々、時に八十万の神あり。みな目勝ちて相問うこと得ず。天鈿女すなわちその胸乳を露にかきいでて、裳帶を臍の下に抑れて、あざ笑いて向き立つ」 

 

とあり、この神の邪視を避け得たと云います 。(注) 

 

夜な夜な訪れる鬼を避けるために、日本の多くの地方では門前にカゴメをつり下げ、鬼がその籠の目の数に驚いて、悪さをさせないようにしていました。目から出てくる光を感じたのです。 こと程左様に、光は人々に害をもたらしたり恵みをもたらしてくれています。光の物理的な側面ばかりでなく、光の人情味も忘れずに物理の勉強に励んで下さい。 物理学万歳!人間学万歳! お後が宜しいようで 

 

(注)『古語拾遺』にもほとんど同じ文章がありました(2016年10月5日)