石田治部少輔三成が、逆心の棟梁として廻文をまわし、
在大坂の大名小名とともに、慶長五年七月晦日に伏見城を攻め落とし、
鳥居元忠らを討ち取って濃州へと出陣した。
かねてから伊東祐兵にも出陣するように催促があったが、
祐兵は重病であり催促にも従わなかった。
島津中務少輔(豊久)は、大坂から出陣する時に、祐兵の居所へ立ち寄り、
さあいっしょに出陣しましょうと申し入れたが、
郎党たちは大病にて病臥していると答えたが、
「直にあってお話したい。」
と言われたので奥へ通された。
祐兵の病状を見て疑いも晴れると、泪を流して、
「ともに出陣しようと思っていたのにこんな容体とは・・・。
十分に養生してください。
命があればまた会いに来ます。」
と言って出て行かれた。
もし家康公に通じていることが露見すれば、
大事だったであろうが、強運の程こそ頼もしけれ。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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