稲津重房の帰参☆ | げむおた街道をゆく

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稲津二郎兵衛尉重房は、日向伊東家の譜代の家臣であったが、

伊東義祐の日向没落(伊東崩れ)の時は未だ年齢は14で、

三位公(義祐)に伴することが出来ず、心ならずも薩摩島津氏の幕下に属した。
 

その後、島津家の大坂屋敷に勤務し、母と妻は薩摩に留め置いてあった。

そんな所に、伊東祐兵が豊臣秀吉より、旧領である日向飫肥を拝領する、

という話が聞こえてきた。

稲津は、

「累代の旧君を余所の君主として見ることは快からず。

大名として旧領に復帰されるからには、
たとえ死すとも、帰参しなければならない!」

と思い立ち、自分の譜代の郎党を呼び、
この決意を話し、

「我が心底は以上の通りである。

お前は急ぎ薩摩に下り、我が母と妻とを伴って飫肥に連れてくるのだ。

私はその頃合いを考えあわせて、この大坂屋敷を立ち退き飫肥に向かう。」

そう命じて早舟を求め、これに乗せて薩摩へと下した。

 

そして郎党がもはや薩摩に着いたと思われる時期に、

稲津は密かに島津の大坂屋敷を脱出した。

稲津重房の逃亡を知った大坂屋敷の番頭は、早舟を仕立ててこの事を国元に知らせた。
ところが、である、

稲津の郎党の乗った早舟は、はるか以前に大坂を出たのであるが、海上の波風が悪く、
殊の外到着が遅れ、却って大坂屋敷の番頭の出した注進の早舟のほうが、

1日早く薩摩についてしまったのである。

この注進を受けて島津家では、

『この処分を寛大にしてしまえば、

これまで我が家に降参した者達に、非常な悪影響を与える。』

と考え、稲津重房の母と妻を殺した。

稲津重房は飫肥に帰り着き、伊東祐兵は彼に200石を与えた。
のち、慶長5年10月9日、木脇口にて戦死した。

享年37歳であった。

 

 

 

戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。

 

 

 

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→ 伊東氏中興の祖、伊東祐兵

 

 

 

ごきげんよう!