米良美濃守重矩は、日向伊東家の家臣であったが、
過ぐる天正4年、一旦の憤りに、
累代の主君に背き、島津家へ寝返った。
これが終には伊東家の日向没落へと繋がったのである。
しかし米良は薩摩において栄達したものの、心安い日は無く、鬱々と思った。
『私はこのまま、叛逆の罪を抱いて生き、不快の月日を送るよりも、
一度旧主に見まえて、
身の罪過を謝し潔く誅殺を被ってこそ、この上の本意ではないだろうか。』
そう考えている中、天正16年、伊藤祐兵が再び飫肥を拝領したと聞いて、
取るものもとりあえず飫肥に帰り、祐兵に対面して先非を謝した。
伊東祐兵は、これを聞くと、
「美濃守は叛逆の徒であり、国を覆した者であるから、
必ず厳罰が行われること必定である。
であるのに、死を決して帰ってきたこと、奇特である。」
そう言ってその罪を宥し、さらに知行を与えた。
米良重矩は感激のあまり、叫んだ。
「公百年の後、私は必ず殉死します!」
しかし、伊東祐兵が慶長5年、大坂で死去した時、嫡子・祐慶は未だ幼少であり、
また宮崎一乱の最中でも在ったため、心ならずも本意を遂げることが出来ず、
その後、清武の領主にもなったが、程なく病死した。
この時、末期に及んで嫡子・勘之助にこう言い残した。
「汝、必ず我が志を継ぐべし。」
寛永13年(1636)、伊東祐慶が江戸にて死去すると、
米良勘之助は清武にて殉死を遂げた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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