当主・祐兵の大病により、再三にわたる、
奉行方からの出陣催促を免れてきた伊東家であったが、
京極高次が大津城に立て籠もったことで、
再び危機を迎えた。
毛利輝元、増田長盛らは、大坂にあって相談し大津城を攻める事にした。
在大坂の大名小名は残らずに出陣させることになったが、
軍勢は少なく、立花宗茂、毛利元康に大坂七組の衆を加えて大津城に差し向けた。
この為、祐兵が病気であるなら家来を差し出すよう催促頻りであったので、
祐兵は、伊東与兵衛、平賀喜左衛門を呼び、
「私は関東の味方をするが、敵中にいる状態で拒めば、
逆心なりと討ち果たされるのは必定だろう。
一段の害を遁れる為に、そなたらに弓鉄砲を添えて大津へ遣わすが、
まったく奉行の味方ではないので心せよ。」
と言われた。
両人は畏まって御前を退出したが、伊東与兵衛が平賀に向かって、
「功を立てるべき戦ではなく、敵に寝返りを悟られれば主君の大事ともなる。
我らは討死してみせるより他はない。」
と言い、平賀も、
「そうですな。」
と答えた。
伊東与兵衛は秘蔵していた刀に小袖を添えて、
寺門に至り、後生を菩薩に頼んで大津へと赴いた。
伊東勢は、立花宗茂の手に属し仕寄をつけた。
もとより討死と思い定めた者どもであったから、
立花家のものよりも前に出て進んだので、宗茂も心のうちを知ることも無く、
「伊東殿は、よき侍をもっておられる。」
と言い、たびたび褒美があった。
九月十一日の城攻めで伊東与兵衛は前後を顧みずに、
真っ先に進んで乗り入れようとしたところを城兵の槍、七、八本を突きたてられ、
平賀も続いて討死したので祐兵は急難を遁れた。
そして濃州関ヶ原において、九月十五日に家康公は勝利を得られ、
祐兵に別心なき事を聞き届けられた。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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