朝鮮の役の折、伊東祐兵が、釜山城に在番していた時に、
伊東家の兵と毛利家の兵が喧嘩に及び、
毛利家からは騎馬の武者が多数出て、
伊東家の船手の者たちを海岸際まで置い詰めた。
ここで伊東家からは落合九右衛門尉を始めとして大勢が駆け付け、
互いに鑓合わせとなったが、
伊東勢は、毛利家の小谷又右衛門(知行八千石)をはじめとした大勢を、
海岸際まで追い込め、
石田九郎右衛門(知行六百石)に重症を負わせ、毛利家では討ち死に6人に及んだ。
伊東家も討ち死に3人、手負い数十人が出た。
このようにほぼ合戦の有様で、鎮め難い状況になったが、
ここに寺沢志摩守(広高)、
島津又七郎(豊久)、相良左兵衛(頼房)の三大将が間に入って調停し、
事態はどうにか鎮まった。
この時、落合九右衛門尉の嫡子で、16歳の落合浅之助、
容儀人に優れ伊東祐兵の小姓であったが、
喧嘩の注進を聞くと馳せ付け一文字に斬り掛かった。
これを見た毛利の武士の一人が、弓を引いて浅之助に放とうとしたが、
彼が年少でありながら、その勇ましいことに感じ入ったのか、
わざと足元の地面に射って、浅之助の姓名を尋ね、感謝して退いた。
この落合浅之助は元来勇気人に優れた男であり、
或る日、伊東祐兵の眼前で敵を討ち取り比類なき働きが有ったので、
近習外様の者たちも、彼に一廉の褒美があると思っていたにもかかわらず、
その後全くその沙汰がなかった。
皆、不思議に思い、ある者が、
「どうして浅之助に褒美を与えられないのですか?」
と尋ねると、祐兵は答えた。
「なるほど、確かに恩賞を与えるべき功名であろう。
だが浅之助は、年齢少なくして勇気があまりに強すぎる。
彼に今褒美を与えては、さらに逸って近いうちに必ず討ち死にするだろう。
そう思ったので、その沙汰をしないのだ。」
しかしその後、浅之助に、何と言う理由もなく、短刀が与えられたそうである。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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