伊東三位入道(伊東義祐)は、島津に破れ豊後に亡命し、田原紹忍の世話となっていた。
ある荒れ寺が気に入ったため、そこで気儘で風流な生活を楽しんでいたところ、何者かが、
「のみしらみ、ねずみとなりて三位殿、たはらの下をはひまはりけり」
と高札に書いて門前に立て置いた。
田原紹忍は歌道に明るかったため、
三位入道は、
「さてはこれは田原の作ではないか?」
と悔しく思い、中国地方を遍歴し、最終的に京において還行された。
息子の左京大夫(伊東義益)もすでに亡くなっていたため、伊東家滅亡と思われた。
しかし左京大夫の弟・民部大夫諸武(伊東祐兵)は聖人の行いに倣い、武勇があり、
諸芸の風流の人であった。
家が絶えることを哀しみ、神仏をたのんでいた甲斐があり、秀吉公の援助で年月を送っていた。
ある夜の夢想に、
「日に増して、しめとる帯のいとふとき」
とあったところで目が醒めた。
「帯(飫肥おび)」とは累代の本知であり、
「日に増していとふとき」とは再び繁栄するという吉兆だと喜び、連歌興行をした。
ほどなく太閤秀吉公に召し出され、本領の内で知行安堵となったことこそ不思議である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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