天正5年(1577)12月、
日向の伊東三位入道義祐は、島津の猛攻に耐えかね、
ついに日向から逃げ出し、豊後の大友宗麟を頼る。
伊東義祐は、国東郡に屋敷を与えられ、丁重に扱われた。
が、翌天正6年の耳川の合戦で大友軍が島津に大敗するとその空気も変わる。
『大友家を島津との戦いに巻き込んだ元凶』
と、伊東の存在をあからさまに厄介視するようになったのだ。
そんなある日、国東の伊東の屋敷の前に、何者かがこのような落首の書かれた札を立てた。
『のみしらみ 鼠となりて三位殿 田原の下を這い回りけり』
これに激しくプライドを傷つけられた伊東義祐は、
わずか20名ばかりの家臣と共に、密かに豊後を落去、伊予へと渡る。
そして各地を放浪して暮らし、天正13年(1585)、堺にて死去。
豊後からの退去後、彼が日向の地を踏むことはなかった。
伊東義祐の晩年を流浪のものとするきっかけとなったと言われる、
落首についての話である。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
こちらもよろしく
ごきげんよう!