天正5年(1577)日向の伊東義祐は、島津の攻勢を耐えることが出来ず、
ついにその主城である佐土原を放棄し、
豊後の大友宗麟を頼り落ち延びた。(伊東崩れ)
さてその頃。
伊東家重臣である米良四郎右衛門尉の子、弥八郎と、
右松四郎左衛門尉の息子、次郎三郎の両人は、
島津の人質として薩摩の鹿児島に在ったが、
伊東家が米良四郎右衛門尉らが中心と成って豊後と通じ、
大友勢が日向に進攻するという企てがあることが鹿児島に聞こえ、
島津家においては、
その人質を取り逃がしてはならないと、
彼らを幽閉し6人の番兵をつけて油断なく監視させた。
二人は自分たちの監視が厳しくなった理由を伝え聞くと、密々に話しあった。
「我々の父は、私たちのことを思わぬということはないだろうが、
しかし親子の情も、
累代の君恩には代えがたいものだ。
国外に出た主君を本国に入れようとの志を持つのは、
武士ならばそう有るべきことだ。
ということであれば、父たちは我々に構わず行動するので、我々の命が奪われるのは、
どうしても逃れられぬことである。
であれば、ここから逃亡をしては見ないか?」
そう決めると、彼らは番人が油断した隙を伺い、その6人の者たちを惨殺し、
夜に紛れて逃げた。
元来彼らは三城で生まれ育ったので、舟に乗ることが巧みであったため、
密かに船を盗んで、
これを自ら櫓を漕いで対岸に渡り、
陸路に上がると昼は隠れ、夜は進んでようやく鰐の口を逃れ、
7日目の夜に佐土原に到着した。
ここには彼らが親しい者が居たので、一飯を乞うて数日の疲労を休めた。
ところが、頼みがいのないのは世の習いである。
この親しき者はその頃、
どうにかして新しい日向の支配者である薩摩に忠節を立て奉公の下地にしたいと、
考えていた折であったため、二人を天の与えたものと喜び、
底意の見えないように彼らをもてなし、やがて疲れから熟睡したところを伺い、
これを縛り付けて薩摩へと差し出した。
本当に、情けのないことである。
二人はそれから再び鹿児島に引き出され。福昌寺において殺された。
しかしこれを聞いた彼らの父である米良四郎右衛門尉、右松四郎左衛門尉は、
この上はもはや少しも心に掛かることは無いと、益々伊東家への忠節を励んだという。
『戦国ちょっといい話・悪い話まとめ』 より。
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